帝国教会政策の強化
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「神聖ローマ帝国」の記事における「帝国教会政策の強化」の解説
オットー大帝以後の皇帝たちは、ゲルマン、ローマ、キリスト教の三要素からなる帝国の基本理念を確立させていった。一方、ピピンの寄進に始まる教会の世俗領主化は教会を堕落させていた。歴代皇帝は教会の綱紀粛正を理由とした改革によって教会人事を掌握していき、ついには教皇の罷免、選出すら自由にしていった。とは言え、あくまでも教会の堕落を食い止めることが目的であり、そうでなくては諸侯や市民の支持は得られなかった。 オットー2世赤帝は帝国各地の反乱に苦しんだ。父が存命時の961年に6歳前後でドイツ王に、973年には18歳前後で皇帝に戴冠していた赤帝だが、即位から程なく従弟のバイエルン公ハインリヒ2世喧嘩公が反乱を起こした。同時期に西フランクからの亡命王子シャルルの扱いを巡り、西フランク王ロテールと戦ってパリへ進撃した。喧嘩公と西フランクを退けた980年末に赤帝は、「至高なるローマ人の皇帝」(Imeprium Augustu Romanorum)の称号を用いてイタリア南部への遠征を行ったが失敗した。983年、ドイツ北東部のノルトマルクで起きたバルト・スラブ人の蜂起への対応に乗り出そうとした矢先、マラリアにより28歳前後で死去。子のオットー3世がわずか3歳で王位を継いだ。結局、ノルトマルクは帝国からしばらく失われた。また、オットー2世の死から4年後の987年、西フランク王国でカロリング朝の王ルイ5世が死去した際、亡命王子シャルルは無視されてカペー朝が成立した。シャルル唯一の男子オトンに嫡子は無く、カロリング朝の男系子孫は完全に途絶えた。 オットー3世は古代ローマ帝国の復興を夢見た。3歳で即位した直後に喧嘩公が復権して王位を狙ったが、母テオファヌが摂政となって難局を乗り切った。テオファヌは東ローマ帝国の皇族出身であり、ビザンティン文化を持ち込んで息子に大きな影響を与えた。また、王国の安定に尽くした。テオファヌの死後、994年に親政を開始した王はイタリア遠征を敢行。ローマの反乱貴族を退けた後、自らが立てた教皇グレゴリウス5世により、996年に15歳で皇帝に戴冠された。イタリアに留まった皇帝は古代ローマ様式の宮殿を新たに造営したり、東ローマ風の祭祀を行ったりした。しかし1002年1月23日に死去。21歳の若さであり、結婚直前の死であったため嫡子は無かった。そのため、ザクセン朝唯一の男系子孫となっていた喧嘩公の子がハインリヒ2世として29歳で即位した。 ハインリヒ2世聖帝は帝国教会政策を強化して諸公の力を抑制し、帝国統治の要となした。即位した王はまず諸侯の臣従を受けるためドイツ国内を巡行、次いでイタリア遠征を行って1004年には在地貴族が独自に立てたイタリア王アルドゥイーノを下した。また、同時期にボヘミア公国(チェコ)を帝国に併合している。1014年には40歳で皇帝として戴冠した。聖帝は普遍的なキリスト教帝国としての「フランク王国の復興」を目指しており、教会の守護者として教会改革に取り組んだ。改革自体は高潔なものだったが、教会の反発を招くことにもなった。1024年、聖帝は51歳で嫡子無く死去。ザクセン朝が断絶したため、オッペンハイムに聖俗諸侯が集まって国王選挙が行われた。オットー大帝の外玄孫で、かつ大帝を救って戦死した赤毛公のひ孫がコンラート2世として33歳前後で国王に選ばれ、ザーリアー朝 が開かれた。 コンラート2世の時代に帝国は版図を拡大した。即位後は聖帝と同じくドイツ国内の巡行とイタリア遠征を行い、1026年に35歳前後で皇帝として戴冠した。1032年9月、ブルグント王ルドルフ3世が嗣子なく死去した。聖帝時代の1006年に結ばれた条約に従い、皇帝はブルグント王国を相続した。つまり皇帝はドイツ王、イタリア王に加えてブルグント王も兼ねるようになった。古代ローマ帝国の名称で言えば、帝国は本土イタリアとゲルマニアに加えて一部とは言えガリアも領有するようになった。このためか「ローマ帝国」(Imperium Romanum)の国名が公文書で用いられ始めている。1039年、皇帝は48歳前後で死去し、子のハインリヒ3世が21歳で後を継いだ。 ハインリヒ3世黒帝の時代が「帝国」の最盛期である。黒帝は皇帝戴冠前から自ら「ローマ王」を名乗り、国王即位時点で地盤のフランケン公領に加えて、シュヴァーベン公位、バイエルン公位も手に入れていた。ロートリンゲンも即位後に掌握し、唯一基盤の無いザクセンでも多数の王室直轄地を作りだして城塞を築いた。1046年より黒王はイタリアへ遠征してローマ教皇庁に介入した。当時のローマ教会は聖職売買や私婚が横行して乱脈を極めていた。ハインリヒ3世は見苦しい権力闘争を行っていた3人のローマ教皇を罷免し、自らが任命したクレメンス2世によって29歳で皇帝として戴冠された。その後も聖職叙任権を握り、教会改革派のドイツ人聖職者を次々と教皇位につけていった。1056年に38歳で死去。子のハインリヒ4世が後を継ぐが、わずか5歳であったため王権は弱体化した。
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