帝国教会政策の強化とは? わかりやすく解説

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帝国教会政策の強化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「帝国教会政策の強化」の解説

オットー大帝以後皇帝たちは、ゲルマンローマキリスト教の三要素からなる帝国基本理念確立させていった一方ピピンの寄進に始まる教会世俗領主化は教会堕落させていた。歴代皇帝教会綱紀粛正理由とした改革によって教会人事掌握していき、ついには教皇罷免選出すら自由にていったとは言えあくまでも教会堕落食い止めることが目的であり、そうでなくては諸侯市民支持得られなかった。 オットー2世赤帝帝国各地反乱苦しんだ。父が存命時の961年6歳前後ドイツ王に、973年には18歳前後皇帝戴冠していた赤帝だが、即位から程なく従弟バイエルン公ハインリヒ2世喧嘩公が反乱起こした同時期に西フランクからの亡命王子シャルル扱い巡り西フランク王ロテールと戦ってパリへ進撃した喧嘩公と西フランク退けた980年末に赤帝は、「至高なるローマ人皇帝」(Imeprium Augustu Romanorum)の称号用いてイタリア南部への遠征行った失敗した983年ドイツ北東部ノルトマルク起きたバルト・スラブ人の蜂起への対応に乗り出そうとした矢先マラリアにより28歳前後死去。子のオットー3世がわずか3歳王位継いだ結局ノルトマルク帝国からしばらく失われたまた、オットー2世の死から4年後の987年西フランク王国カロリング朝の王ルイ5世死去した際、亡命王子シャルル無視されカペー朝成立したシャルル唯一の男子オトン嫡子無くカロリング朝男系子孫は完全に途絶えたオットー3世古代ローマ帝国復興夢見た3歳即位した直後喧嘩公が復権して王位狙ったが、母テオファヌ摂政となって難局乗り切ったテオファヌ東ローマ帝国皇族出身であり、ビザンティン文化持ち込んで息子大きな影響与えたまた、王国安定尽くしたテオファヌ死後994年親政開始した王はイタリア遠征敢行ローマ反乱貴族退けた後、自らが立てた教皇グレゴリウス5世により、996年15歳皇帝戴冠された。イタリアに留まった皇帝古代ローマ様式宮殿新たに造営したり、東ローマ風の祭祀を行ったりした。しかし1002年1月23日死去21歳若さであり、結婚直前の死であったため嫡子無かった。そのため、ザクセン朝唯一の男系子孫となっていた喧嘩の子ハインリヒ2世として29歳即位したハインリヒ2世聖帝帝国教会政策強化して諸公の力を抑制し帝国統治の要となした。即位した王はまず諸侯臣従を受けるためドイツ国内巡行次いでイタリア遠征行って1004年には在地貴族独自に立てたイタリア王アルドゥイーノを下したまた、同時期にボヘミア公国チェコ)を帝国併合している。1014年には40歳皇帝として戴冠した聖帝普遍的なキリスト教帝国としてのフランク王国復興」を目指しており、教会守護者として教会改革取り組んだ改革自体高潔なのだったが、教会反発を招くことにもなった。1024年聖帝51歳で嫡子無く死去ザクセン朝断絶したため、オッペンハイム聖俗諸侯集まって国王選挙が行われた。オットー大帝の外玄孫で、かつ大帝救って戦死した赤毛公のひ孫コンラート2世として33歳前後国王選ばれザーリアー朝開かれたコンラート2世時代帝国版図拡大した即位後は聖帝同じくドイツ国内巡行イタリア遠征行い1026年35歳前後皇帝として戴冠した1032年9月ブルグント王ルドルフ3世嗣子なく死去した聖帝時代1006年結ばれた条約従い皇帝ブルグント王国相続した。つまり皇帝ドイツ王イタリア王加えてブルグント王兼ねようになった古代ローマ帝国の名称で言えば帝国本土イタリアゲルマニア加えて一部とは言えガリア領有するようになったこのためか「ローマ帝国」(Imperium Romanum)の国名公文書用いられ始めている。1039年皇帝48歳前後死去し、子のハインリヒ3世21歳で後を継いだハインリヒ3世黒帝時代が「帝国」の最盛期である。黒帝皇帝戴冠前から自ら「ローマ王」を名乗り国王即位時点地盤フランケン公領加えてシュヴァーベン公位、バイエルン公位も手に入れていた。ロートリンゲン即位後に掌握し唯一基盤の無いザクセンでも多数王室直轄地作りだして城塞築いた1046年より黒王はイタリアへ遠征してローマ教皇庁介入した当時ローマ教会聖職売買や私婚が横行して乱脈極めていた。ハインリヒ3世見苦しい権力闘争行っていた3人のローマ教皇罷免し、自らが任命したクレメンス2世によって29歳皇帝として戴冠された。その後聖職叙任権握り教会改革派のドイツ人聖職者次々と教皇につけていった。1056年38歳死去。子のハインリヒ4世後を継ぐが、わずか5歳であったため王権弱体化した

※この「帝国教会政策の強化」の解説は、「神聖ローマ帝国」の解説の一部です。
「帝国教会政策の強化」を含む「神聖ローマ帝国」の記事については、「神聖ローマ帝国」の概要を参照ください。

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