小田原合戦とは? わかりやすく解説

小田原征伐

(小田原合戦 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 09:33 UTC 版)

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に関白太政大臣豊臣秀吉が、小田原北条氏(後北条氏)を降した歴史事象・戦役。北条氏と真田氏(上杉氏)の間での領土紛争を豊臣秀吉が仲裁したが、この沼田領裁定の一部について、北条氏が武力で履行を覆したこと、及びそれを正当化したことが豊臣政権惣無事令違反と看做され、北条氏は豊臣氏の軍事力による攻撃を受けた[2]。北条氏本拠であった小田原城の攻囲戦が著名であるため本項のような名称で呼ばれるが、本項では小田原城攻略戦だけではなく、並行して行われた後北条氏領土の掃討攻略戦も同戦役に含むものとして扱う。




注釈

  1. ^ 家康と氏規は幼少時期、共に駿河の大名今川義元の下で人質生活を送っており、その頃の旧知であるとする説がある
  2. ^ 北条氏邦は沼田城および猪俣邦憲を采配する立場でもあり、のちに豊臣方との開戦が決まった際は駿河国への先制侵攻、または関東平野での大規模な野戦を主張したが、この意見は小田原の本家に退けられた、とされる。
  3. ^ 城主の山本常任は討死
  4. ^ 獅子浜城は関宿城大石直久1200。安良里城に三浦茂信、田子城は山本正次
  5. ^ のちに北条氏に代わり関東の領主となった徳川家康は、松田康長の子の松田直長や、間宮直元ら間宮康俊の孫を家臣として召し抱えている。北条氏勝・繁広兄弟も家臣とした。間宮康俊の娘は家康の側室となっている。蔭山氏広の義娘の養珠院も側室となっている。
  6. ^ 秀次の寄騎や直参兵が主力ではあったが、実際に総大将たる秀次自身が危険な場に突入したかは不明。
  7. ^ 江戸城主の遠山景政が守備していたが、徳川勢に攻められ30余名の戦死者を出して落城
  8. ^ 家康と氏規は幼少時期、共に駿河の大名今川義元の下で人質生活を送っており、その頃の旧知であるとする説がある。また家康と氏規はこれまでも時々交渉の書簡を交わしており、双方に音信があった。氏規は小田原北条氏の名代として上洛し、秀吉との折衝を行っている。すなわち家康と氏規は豊臣方と北条方の交渉担当的な存在であった。
  9. ^ 宗二が北条氏に義理立てした、とも伝わる。
  10. ^ 孫を脱出させた、とも。長男はこの時、小田原城にいた。またこの脱出を真田昌幸が見て見ぬふりをした、との話が伝わる。
  11. ^ どちらも小幡氏の城であり、当主の小幡信貞父子らは小田原籠城中。国峯城と庭谷城の守備を命じられたのは庭谷城主の庭谷兼行。国峯城を落としたのは上杉景勝麾下の藤田信吉
  12. ^ 垪和氏・内藤直矩が戦わずに開城し、真田昌幸が入城した。
  13. ^ 城主の金井秀景は小田原城に行き不在
  14. ^ 富岡氏の先代富岡秀高が守備
  15. ^ 城主大胡高繁は小田原に籠城
  16. ^ 城主の白倉重家は小田原在陣。弟の白倉重治が残兵と共に守備。
  17. ^ 上杉勢の藤田信吉に攻められ、城主の多比良氏は降伏した。
  18. ^ 石倉城守将の寺尾左馬助から康国への申し入れにより一旦は開城となったが、開城時の混乱の中で疑心暗鬼に陥った左馬助が康国を殺害、康国弟の依田康勝が左馬助を討ち取った、という話が伝わる
  19. ^ 城主の猿渡盛正は八王子城に籠城し、討死。
  20. ^ 遠山政景の弟の川村秀重が1000人で守備していたが、浅野長政や徳川麾下の榊原康政戸田忠次らが攻め寄せたため開城降伏
  21. ^ 遠山氏が守備していたが、周辺諸城が開城する中で唯一抗戦の姿勢を見せたため、戸田忠次ら徳川勢が攻め落とした
  22. ^ 城主の高城胤則は小田原籠城中であったが、叔父の戦死と豊臣の圧倒的な大群に衝撃を受け、密かに城に使いを送って開城を命じ、浅野長政に降伏させた。
  23. ^ 父の相馬治胤が100騎を率いて小田原籠城中に、不仲の子の秀胤が徳川に通じて5月中に開城。戦後、秀胤に本領安堵。
  24. ^ 東金酒井政辰が150騎、土気酒井康治は3百騎を率いて小田原城に籠城しており、当主不在。さらに里見氏の北上に備えて各支城にも兵を配していたと推測される。
  25. ^ 城主で真里谷武田氏当主の真里谷信高は徳川勢に開城し、那須氏に亡命した。
  26. ^ 城主で庁南武田氏当主の武田豊信は日和見的な態度であったため、徳川軍の本多忠勝により落城
  27. ^ 井田胤徳は小田原籠城中で留守
  28. ^ 本多忠勝により攻略と伝わる。のち本多はこの地を領する。発掘調査で火災跡が見つかっている。
  29. ^ 潮田資忠と長男は小田原籠城。次男は落城時に脱出し伯父の太田資武に匿われた。
  30. ^ この間、6月5日に小田原に参陣した奥州会津の伊達政宗の詰問を行う為、浅野長政と前田利家は軍を置き、自身らは小田原包囲陣に入っている。6月9日に伊達政宗と秀吉の会見があったため、それ以降に自軍に戻ったと考えられる。
  31. ^ このことからも、城方の名のある将は全滅していた、と推測される。
  32. ^ 上杉景勝は相続時の因縁から、小田原北条氏とは仇敵である。
  33. ^ 芳賀高継。戦後すぐに帰参を許されている。
  34. ^ この二者は従兄弟。
  35. ^ 養子。実兄は宇都宮国綱であり、国綱・朝勝・芳賀高武の三兄弟は、佐竹義宣・蘆名義広らと従兄弟。なお、近年の研究では小田原征伐当時、朝勝とは別人の結城氏当主がいたかもしれないことが示唆されている。
  36. ^ 結城晴朝の実兄
  37. ^ 八王子城に籠城し、戦死。
  38. ^ 正室は佐竹義重養女
  39. ^ 壬生義雄の妹婿
  40. ^ 江戸重通は縁者の結城晴朝の下へ逃れ、大掾清幹は自刃。
  41. ^ 小田原には義宣と共に参陣している。
  42. ^ 小野崎昭通(照通)は伊達政宗の娘五郎八姫と家康六男の松平忠輝の婚姻に伊達家から付属し、忠輝家中となり越後高田藩士となるが、忠輝改易により浪人。その後増上寺の仲介により徳川御三家水戸藩に仕え、常陸に復帰している。
  43. ^ のちに佐竹氏の重臣となる元・小山家臣の渋江政光はこの時浪人し、佐竹氏に登用された。
  44. ^ 常陸下館城水谷正村らは結城氏の親族で家臣。小田原征伐後は独立大名として4万7,000石を安堵された上で結城氏寄騎。
  45. ^ のちに資晴も許され、別に所領が与えられた。
  46. ^ ただし国繁と顕長の間にもう一人、渡瀬繁詮という兄弟がいたことも考慮すべきである。繁詮は当初兄弟と同じく北条傘下であったがのち離れ、上方に出て豊臣家に仕え、豊臣秀次の重臣となっていた。
  47. ^ 氏姫の母も祖母も北条氏の娘。
  48. ^ 戦後、弟の関根勝直と共に結城秀康に仕える。越前騒動で追放。
  49. ^ 牢人であった仙石秀久が活躍し、秀吉の勘気が溶けたという話が残る。
  50. ^ 箕輪城主の北条氏邦(藤田氏邦)は小田原籠城に反対し、大規模な野戦を主張したが採用されず、領内の鉢形城に籠城して10倍の北方軍と対峙、6月初旬に既に開城している。
  51. ^ 嫡男で松田憲秀娘婿の内藤直行は小田原に詰めていたため、内藤綱秀と老臣ら150名で防戦。津久井衆を率いて、4月に中郡白根に駐屯する豊臣勢に攻撃している。6月に徳川勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉戸田忠次、松平康貞ら1万1千余の攻撃を受けた。
  52. ^ 大道寺政繁は早期に降伏し、以降は豊臣方として他の城の攻城や開城交渉に働いていた。
  53. ^ 後述するが、この時点までに織田信雄は改易されている。
  54. ^ 後年、家康の江戸入城は8月1日とされているが、『家忠日記』には秀吉の江戸城入りの前日の7月18日の段階で江戸城に入っている。

出典

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  2. ^ 中野、2015、p.156。
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  72. ^ 家忠日記
  73. ^ 御湯殿上日記



小田原合戦

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後北条氏」の記事における「小田原合戦」の解説

小牧・長久手の戦い四国征伐九州征伐経て日本をほぼ統一した豊臣秀吉に対して北条家も他の大大名と同様に大名家家格維持すること、領民手を出さないこと(民政不介入)を条件恭順意思示していた。しかし、天正17年1589年)に上野国胡桃において、かねてより真田家との間にあった領土紛争拗れ北条家家臣猪俣邦憲独断真田家名胡桃城攻撃して、これを占領した名胡桃城事件)。この事件豊臣政権諸大名に対して私戦禁止した惣無事令背いたとされ、天正18年1590年)に豊臣秀吉諸大名動員し小田原征伐号令した。これによって戦国大名としての後北条氏滅亡することとなる。 この時点まで秀吉明智光秀柴田勝家滅ぼしたとはいえ毛利長宗我部島津徳川織田といった大名家に対しては、領地削減などはあれどこれらを廃することなく処していた。徳川氏島津氏長宗我部氏などは、豊臣政権一度交戦至ったものの、最終的な殲滅決戦が行われるより前に当主直接的に豊臣政権への忠誠を誓うことによって本領安堵されている。ゆえに、豊臣政権目指していたのは、北条氏らを滅亡させることではなくあくまでも惣無事令全国施行によって領土紛争対す裁判権豊臣掌握することにより、全国諸大名支配することにあった、とする説もある。真田氏との領土紛争に際して秀吉当初仲裁者の立場立っており、北条氏有利の裁定下している。

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