奴隷貿易時代
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ヨーロッパに大航海時代が到来し、ポルトガル人をはじめとしたヨーロッパ各国の人々が西海岸を南下しはじめた15世紀末頃からアフリカとヨーロッパ各国との本格的な交流が始まった。沿岸の支配者や首長から土地を借り受け、交易の許可を取り付けたヨーロッパの商人たちは交易のための基地を多数建設し始める。とりわけ有名なのが1482年に黄金海岸にポルトガル人によって建設されたエルミナ城(サンジョルジュ・ダ・ミナ)である。 16世紀まではヨーロッパからもたらされる加工品と西アフリカの産物(金や象牙)などの交易が平和裏に行われ、友好な関係が築かれた。しかし、ヨーロッパ各国が西インド諸島やアメリカ大陸でヨーロッパ市場に向けた大規模な農場経営に乗り出すと、大量の労働資源確保の必要性に駆られ始める。アメリカ大陸などの現地住民には限りがあり、そこで代替案として浮上してきたのが、アフリカから奴隷を移入するということであった。 大西洋を横断する奴隷貿易に最初に着手しはじめたのはスペインで、1513年にスペイン王室が初めて奴隷供給契約許可証を発行した。許可証を手にしたスペイン商人は新大陸から砂糖を持ち帰ると1518年に初めて「商品」として奴隷を積み込み、アフリカ西海岸を発った。 彼らは三角貿易と呼ばれる航海サイクルで莫大な利益を手にしていく。まずヨーロッパで工業品を積み込んだ商船はアフリカ西海岸でそれらの品を奴隷に変え、その奴隷を西インド諸島やアメリカ大陸へ供給し、そこで砂糖やタバコなどの商品を積み込み、ヨーロッパへ帰港する。この1年から2年サイクルでの交易を繰り返し行っていた。奴隷貿易時代に大西洋を渡ったアフリカ人奴隷の数は1200万人から2000万人と言われている。 アフリカ西海岸から新大陸に至る約40日から70日の奴隷の運搬は過酷を極め、航海中の奴隷の死亡率は8%から25%に上るとされ、平均して6人に1人が死亡した形となっている。全裸で鎖に繋がれた奴隷は剃毛(ていもう)され、会社の刻印を焼き付けられ、船倉に詰め込まれる。食事は1日2回で、少量の水とともに与えられるだけであった。不潔な船内ではマラリア、天然痘、赤痢などの感染症がはびこることも多々あり、病気にかかった奴隷は生きたまま船外へ投げ捨てられた。 奴隷の需要はとどまるところを知らず、17世紀後半にはアフリカ大陸内で奴隷獲得のために戦争が頻繁に行われるようになった。また、人さらいも横行し、その被害を受けた者も多数にのぼった。 奴隷貿易によって大量の労働力を失ったアフリカの諸都市は急激に力を弱め、ヨーロッパによる略奪と支配が横行するようになる。また、ヨーロッパ製品が大量に氾濫し現地の工芸や産業も停滞して低開発化が進んだ。このような状況が先進国からの目で「自立が不可能」との評価につながり、後の大規模な植民地化へと繋がっていくことになった。 また、アフリカ人に対する差別主義も深く根付き、当時アフリカに滞在したヨーロッパ人の日誌や記録を元にそれらの思想は哲学者や生物学者の手によって、学問に組み込まれていった。植物学者カール・フォン・リンネは人類をホモ・サピエンスとホモ・モンストロススに区別し、当時における「科学的な人種概念」の形成に寄与した。また、モンテスキューなどの哲学者も「極めて英明なる存在である神がこのような漆黒の肉体に善良なる魂を宿らせたという考えに同調する事はできない」(『法の精神』より)と語るなど、庶民にアフリカ=野蛮という認識を植え付けていった。 しかし、19世紀に入るとヨーロッパ諸国は手のひらを返したようにアフリカに対する接触の仕方を変化させた。産業革命を迎え、人格を拘束する奴隷制は次第に時代遅れになり、自らの意思で労働力を切り売りする労働者が求められる時代へと変革していったからである。 ヨーロッパの都合で激化した奴隷貿易はヨーロッパの都合により次第に終息し、アフリカ人不在のまま、植民地化の時代へと突入していくこととなった。
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