奴隷貿易・奴隷制廃止への動き (1830年以降)
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「ヴィクトル・シュルシェール」の記事における「奴隷貿易・奴隷制廃止への動き (1830年以降)」の解説
この間フランス国内では、1831年に有色自由人の市民権が認められ、同年3月4日付法律により奴隷貿易が禁止された。1834年には、マルティニークを追放されパリに亡命していたシリル・ビセットが有色人協会を設立し、『植民地誌』を創刊した。 同年、キリスト教道徳協会の奴隷貿易・奴隷制廃止委員会によりフランス奴隷制廃止協会(フランス語版)が設立された。フランス奴隷制廃止協会の会長で、後に外相次いで在英フランス大使に任命されたヴィクトル・ド・ブロイ(フランス語版)は、植民地・奴隷制に関する法改正のための委員会を設置し、自ら委員長を務めた。ブロイ委員会には、後に海軍・植民地大臣となったアンジュ・ルネ・アルマン・ド・マコー(フランス語版)のような保守派も含まれていた。彼は奴隷解放よりも奴隷の境遇改善を主張しており、この結果、ブロイ委員会報告を受けて提出・可決されたマコー法(フランス語版)(1845年施行)は、奴隷の結婚権、財産権、遺産相続権、本人および家族の自由を買い戻す権利、宗教教育や初等教育を提供する義務などに制限されたものであった。 一方、早くから奴隷制廃止を呼びかけていたル・マン聖霊会および聖十字聖母マリア会の司教カジミール・デュグージョンは、1845年に『フランス植民地における奴隷制』を著し(彼は1848年にシュルシェールの推薦によりグアドループの使徒座知牧となったが、プランテーション経営者らの反対に遭い、翌49年にフランスに戻らざるを得なくなった)、フリーメイソンも1836年にグアドループに「ヒラムの弟子」ロッジを設立するなど(ヒラムはフリーメイソンの始祖)、奴隷制廃止の要求が強まっていた。
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