奈良線 旧生駒トンネル
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「生駒トンネル」の記事における「奈良線 旧生駒トンネル」の解説
奈良線の旧生駒トンネルは1914年(大正3年)に、近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)により開通した。開通当時は中央本線の笹子トンネル(4,656m)に次いで日本2番目の長さであり、また日本初の標準軌複線トンネルであった。 現・奈良線の生駒山越えルートは、計画段階では以下の4案があった。 暗峠沿いに線路を敷設し、「鋼鋼(こうこう)線釣瓶(つるべ)式」と称されたケーブル式を採用する。 生駒山地を北に向かい、北河内郡四條村(現:大東市)で山嶺を越え、さらに南進して斜めに東麓を下り、生駒谷を渡って富雄村丘陵を経過する約16.0km。 生駒山西麓の善根寺谷で約2.2kmのトンネルを掘削し、東麓に出て斜めに生駒谷を下り、富雄村丘陵を経過する約14.5km。 実際の採用ルート 1.は、線路車体等特殊の設備を必要とし、平坦部との連絡で、乗客に不快・不便を与える。2.3.は遠回りのルートであるなどの問題がある。結果的に、勾配が緩く、運転時間が短く、競合線敷設の余地を排除できる4.が選定された。1910年(明治43年)11月21日の大軌役員会で最終決定された。 生駒トンネル(当時の名称は「生駒隧道」)は、1911年(明治44年)6月1日に掘削工事に着手し、同月19日に大林組と正式に請負契約を締結した。当初は手掘りで開始されたが、その後は送電設備が完成し、削岩機が導入された。作業員には、鉱山掘削経験者など精鋭を集め、その中には朝鮮半島出身者も含まれていた。 1913年(大正2年)1月26日に発生した落盤事故では約150人が生き埋めとなり、19人の犠牲者が出た。この犠牲者は、日本鉄道霊社(奈良市)に合祀され、慰霊祭が毎年実施されている。その後も地質変化や湧水に悩まされるなど、苦難の連続だったが、1914年(大正3年)1月31日に、東西の導坑が貫通し、4月18日にはトンネルが竣工した。大軌の営業開始は4月30日である。生駒隧道の掘削工事は2年10ヵ月の期間と、総額269万円の建設費を要した。 当時の大軌社長である岩下清周は、「最初にウンと金をかけて完全なものを建設せねばならぬ。之れが為三百万円の会社が六百万円の金を費(つか)った処(ところ)で、夫(そ)れは敢えて問題でない。要は後日に悔を残さぬことである」と述べたといわれる。 工費の支払いや利用不振から、大軌は同トンネル開通後しばらく社員の給料支払いや切符の印刷費にも事欠くほど経営が行き詰まり、取締役支配人の金森又一郎が生駒山にある宝山寺へ賽銭を借りに行った。また建設した大林組も、大軌による建設費の支払い遅延から一時経営危機に陥った。しかし、そのような状況にもかかわらず、大林組は手抜きをせず最高の資材を使って工事を進め、検査に来た監理局員がその質の高さに驚かされたというエピソードが残っている。 1946年(昭和21年)4月16日にトンネル内で発生した車両火災では23名が死亡し75名が負傷、翌1947年(昭和22年)に再び発生した火災では約40名が負傷した。 さらに1948年(昭和23年)3月31日には、トンネル内を走行中だった急行列車の空気ブレーキ(直通ブレーキ)が破損して大阪平野に向かう下り勾配を暴走、河内花園駅で先行の普通列車に追突し、49名が死亡、282名が負傷する事故が発生した(近鉄奈良線列車暴走追突事故)。 1964年(昭和39年)に南側に並行して新生駒トンネルが開通し、旧トンネルは使用されなくなった。 旧トンネルは、使用停止後も新生駒トンネルやけいはんな線生駒トンネルとの交通があり、また高圧電流の通る電力設備が設置されている。このため旧トンネルは部外者の立入が禁止され、大阪側坑口は近鉄により厳重に管理されている。近鉄主催の創業100周年記念産業遺産ツアー等、一般に公開された事が数回ある。
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