域内各地の様子
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「気仙町 (陸前高田市)」の記事における「域内各地の様子」の解説
陸前高田市立気仙中学校東北地方太平洋沖地震が発生した3月11日当日は卒業式の練習を行うため、全校生徒が学校にいたが、地震が発生すると、独自の避難所へ避難して、点呼をとった後に二日市公民館へと移動した。 生徒たちが避難した後に、3階建ての校舎の屋上を越す14.2mの津波が到来する。 4月20日、校舎が被害を被ってしまったため、旧矢作中学校を利用して、再開した。 陸前高田市立気仙小学校全学年の生徒が学校にいる中、地震が発生した。後に教務主任の教職員らが各クラスの担任の教職員へと指示を出し、防寒着を着て、屋外へと避難をした。その後、津波が堤防をこえたという情報を確認し、「わんぱく山」と呼ばれる標高およそ10mの裏山へと全校生徒と教職員が避難をした。低学年は長圓寺へ、高学年は月山神社へと移動し、最終的に保護者への児童引き渡しは6日を要した。 4月20日、校舎が津波被害を被ってしまったため、陸前高田市立長部小学校を間借りして、再開した。 陸前高田市立長部小学校2年生から6年生が学校にいる中、地震が発生した。校庭に亀裂が入ったため、校庭ではなく、より標高が高い長部保育所へと避難した。長部地区コミュニティセンターでは炊き出しが行われ。 仲町公民館震災が発生した当日、仲町公民館は津波に襲われ、2021年3月1日時点で仲町公民館に避難していた24人が死亡もしくは行方不明になっている。 鉄砲町公民館震災が発生した当日、鉄砲町公民館は津波に襲われ、2021年3月1日時点で鉄砲町公民館に避難していた54人が犠牲となっている。 二日市公民館本来、約50人が定員であったが、実際には気仙中学校の生徒など約200人が避難してきた。また、地域住民から、食料と毛布が提供が提供された。 今泉保育所地震が発生した時、児童は昼寝の時間であった。地震と同時に停電が発生したため、各クラスの担任が一時的に判断を下したが、最終的に全クラスが庭に集合した。 その後、今泉地区コミュニティの会長と相談して、気仙小学校に避難し、最終的に長部保育所へと移動した。なお、職員らは避難中も引き渡し作業と保育などの業務も行った。 長部保育所地震が発生した時、児童は昼寝の時間であった。長部保育所は高台に位置していたため、地震のゆれがおさまるのをまって、庭へと待機し、随時児童の引き渡しを行った。また、被害が少なかったこともあって、今泉保育所の児童、職員、保護者らが避難所として利用した。
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域内各地の様子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 14:14 UTC 版)
「米崎町 (陸前高田市)」の記事における「域内各地の様子」の解説
陸前高田市立米崎中学校東北地方太平洋沖地震が発生した3月11日当日は卒業式の準備や掃除を行っており、地震が発生すると、ひとまず校庭へと集合したが、津波が防潮堤を越えたことを確認したため、裏山へと避難した。 その後、校庭へと一旦戻ったが、時刻は午後5時を過ぎ、気温が氷点下3度から5度と冷え込みはじめたため、体育館へと移動し、灯油式ストーブ4台と灯油200Lを用いて、暖房とした。 食料はPTAに要請をして、100kg以上の米を集め、炊き出しを行い、避難者におにぎりを提供した。電力は発電機と車から調達したガソリンを用いて調達した。 3月12日、体育館に亀裂を確認したため、これ以上は避難所としての機能を果たせないと判断し、避難者は米崎小学校と神田公民館へと移動した。なお、体育館は岩手県警察へと引き渡し、遺体安置所として使用されることになった。 なお、生徒は全員無事であった。 陸前高田市立米崎小学校全学年の生徒が学校にいる中、地震が発生し、生徒らは机の下に隠れ、戸を開けて、避難経路を確保した。事前に作成されていたマニュアルには「地震がおさまってから避難する」という旨が記載されていたが、揺れが長かったため、副校長と用務員が生徒に校庭へ避難するように指示した。 防災行政無線で「防潮堤を越えた」と聞こえ、海の方面で水しぶきを確認したため、1kmほど北上し、岩根会館へと避難した。 翌日、避難者が米崎小学校に集まり始めたため、小学校の体育館と一部の教室を開放し、自治体が運営する形で避難所として運用された。 米崎地区コミュニティセンター震災が発生した当日、米崎地区本部と避難所が開設され、米崎町内の避難所である米崎小学校と米崎中学校の状況を把握しながら、約150人の避難者を受け入れた。 近隣の自主防災会が毛布やストーブ、カップ麺を備蓄していたため、分け与え食べた。 翌日になると、岩手県立高田病院の職員を受け入れて、一部を県立高田病院救護所として開設し、救護所を併設した米崎地区本部は各避難所の巡回や支援物資の仕分け、配給を行った。 米崎保育園地震が発生した時、児童は昼寝の時間であった。地震が発生し、庭へと移動したが、防災行政無線から津波の襲来を聞き、上浜田構造改善センターへと逃れた。しかし、建物は地震による倒壊の可能性を孕んでいたため、より高台にある岩根会館へと移動し、最終的に民家の離れを借りて宿泊した。
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域内各地の様子
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「矢作町 (陸前高田市)」の記事における「域内各地の様子」の解説
陸前高田市立下矢作小学校下校前の帰りの会の最中、地震が発生し、生徒らは地震の揺れが収まってから、校庭へと避難し、保護者が迎えに来た生徒を保護者へと引渡した。残った児童と地域住民らは体育館を避難所としたが消防団の指示で、下矢作地区コミュニティセンターへ移動した。 また、生徒の引渡しは3月11日の夜までに全て完了した。 矢作地区コミュニティセンター震災が発生した当日、矢作地区本部と避難所が開設され、炊き出しや支援物資の仕分けを行いながら、20人ほどの避難者を受け入れた。矢作地区(二又地区)は海に面さない上、矢作町の中でも標高が高く、津波による被害を受けなかったため、避難者は他の避難所と比べると少なかったが、後に学校職員の宿泊場所として運営された。 生出地区コミュニティセンター震災が発生した当日、生出地区本部と避難所が開設されたが、生出地区は内陸に位置していたため、被害が少なかったため、避難者はいなかった。 自衛隊による支援物資が配送されるまで、炊き出しを行い、高田町の陸前高田市立第一中学校や下矢作コミュニティセンターなどへと提供した。 下矢作コミュニティセンター震災が発生した当日、下矢作地区本部と避難所が開設され、下矢作地区や気仙町方面から大勢の避難者が避難してきた。 避難所の運営は市職員らと地域住民で行った。3月11日は食料は地域住民が持ち寄り、おにぎりや漬物を300以上の避難者に提供したが、翌日から一関市大東地域や、市内で被害が軽微であった生出地区、矢作地区から食料が届けられた。 矢作保育所地震が発生した時、職員は児童が机の下に入るように誘導すると同時に、火元の始末、ラジオや防災行政無線からの情報収集、施設の安全確認、避難経路の確保、児童の保護者への連絡を行った。児童の引き渡しが開始され、3月11日午後4時ごろに引き渡しが完了した。 その後、職員らは矢作地区コミュニティセンターでの炊き出しや情報収集に努めた。 下矢作保育園地震が発生した時、児童らは昼寝の時間であり、パジャマの上から服を重ねて、第一避難所である庭へと避難した。 保護者が迎えに来た児童は引き渡し、残った児童と職員らは、下矢作コミュニティセンターへと移動し、灯油や食料を提供した。 3月12日午前10時30分ごろに最後の児童の引き渡しが完了し、職員全員が帰宅した。 矢作町6区公民館3月11日から5月10日まで避難所を開設し、40人ほどが避難していた。 矢作町7区公民館3月11日から5月10日まで避難所を開設し、20人ほどが避難していた。
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