和更紗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:08 UTC 版)
早くから作られたものに鍋島更紗があり、その他、江戸時代後期になると日本各地で更紗の模倣品が製作されるようになった。天草更紗、長崎更紗、堺更紗、京更紗、江戸更紗などが著名である。文様の表出には、手描きや木版のほか、日本独特の技法である伊勢型紙を用いた型染めがある。伊勢型紙とは、現在の三重県鈴鹿市の特産で、渋紙を何枚か重ね、彫刻刀で繊細な文様を彫ったもので、これを布面にあてがい、刷毛で染料を塗り込むものである。近世の日本ではアカネ染めの技法が開発されていなかったため、全体に色彩は地味であり、文様も扇などの日本的風物を取り入れたものがある。 鍋島更紗は1598年(慶長3年)、朝鮮出兵から帰国した鍋島直茂が李氏朝鮮から連行してきた九山道清(くやまどうせい)なる人物によって始められたとされ、染めには木版と型紙を用いる。焼き物の鍋島焼と同様、佐賀藩によって保護奨励されていたが、鍋島更紗の伝統は明治になって一時途絶え、1960年代になって地元の染織家鈴田照次が復活した。 天草更紗は江戸時代末期の文政年間(1818年〜)に始まったとされるが、染織工芸家・大和田靖子の40年以上かけた研究『天草更紗の検証』(2010年9月)及び『天草の更紗』(2014年5月)によると、江戸時代、オランダや中国から長崎経由で輸入される際に長崎奉行が鑑定・評価する手本として幅2寸(6.06センチメートル)ほどの切れ端を「端物切本帳」に貼り付け、荷札のサンプルを作成した。それが現在、東京国立博物館や長崎歴史文化博物館などに残っている。旧家の大庄屋松浦家(天草市天草町)や武田家(天草郡苓北町)などに残る更紗を一点々、「端物切本帳」の模様と布地を照らし合わせた。その結果、輸入更紗とそれを真似て日本で作られた和更紗の二種類に分類できることが分かった。さらに型紙も発見されず、鍋島更紗などと肩を並べるような独自性のある「これぞ天草更紗の技法なり」というものは全く見当たらず、更紗の中で特別のものとするには無理があると疑問視し、結論づけている。 昭和の初めから1950年代にかけて復興更紗として注目を浴びた中村初義(1970年没)は、染料を混ぜた糊「色糊」を使用した型染めで、明治以降ドイツから化学染料が輸入された後、染めの加工工程を簡略化し、安くて大量生産の技術を用いたものであった。中村は1964年、県の無形文化財に指定(1975年指定解除)されるが、大和田は「例え更紗の模様であっても技法が伴わなければ厳密な意味で、更紗ではなく、『更紗模様』『更紗風』と表現して然るべきもの」だという。 近年、「天草更紗の復興・復活」という言葉でもって江戸期の更紗と関連付けるような印象を与える天草更紗創作の動きもあるが、「技法が伴わなければ更紗ではない。本来ならば植物染料を刷毛で摺り込むのが本当で、糊に色を混ぜてヘラで型に摺り込む技法は江戸時代にはなかった。」と疑問視する(『天草更紗の検証』)。 この他に長崎更紗、堺更紗、京更紗、江戸更紗などが知られる。こうした和更紗は、元は男性の下着や、女性用の帯、和装小物、風呂敷、布団地などに用いられ、素材はインド更紗と同様に木綿が原則であった。しかし、大正時代末期頃から更紗文様が絹製の帯などにも染められるようになった。更紗が着尺にも染められるようになり、更紗の着物が普及するようになるのは第二次世界大戦後のことであるが、これは文様が「異国風」であるという点以外、一般の着物と大差ないものである。 和更紗は、300枚もの型紙を使って製作された作品もあった。戦後は印刷技術の発達・普及で衰退したが、伊勢型紙と江戸小紋の技術を継承して更紗の再興に取り組む職人もいる。
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