南アジアおよび東南アジア
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「仏教の歴史」の記事における「南アジアおよび東南アジア」の解説
ヘンリー・スティール・オルコットと仏教徒(スリランカのコロンボ、1883年) ミャンマーにおける第6回(仏典)結集。マハーシ・サヤドーが仏法についての質問者に指名され、ミングン・サヤドー(英語版)が主たる回答者として回答した。 インド、マハーラーシュトラ州のナーグプルにあるアジア最大の仏塔ディークシャーブーミ。1956年、インド憲法草案を作成したビームラーオ・アンベードカルは、ここで仏教に改宗した(インド仏教復興運動) イギリスの統治下のスリランカでは、国が認可する学校をすべてキリスト教の宣教師たちが運営しており、仏教を激しく批判していた。1865年までに、仏教徒側がキリスト教徒に対する反対運動を開始し、パンフレットを印刷したり、公開の場でキリスト教徒と討論を行ったりした。1873年に行われたパナードゥラ討論(Panadura debate)が有名で、仏教徒の僧ミゲットゥワッテー・グナーナンダ・テーラ(英語版)が1万人の群衆の前でキリスト教徒との討論に勝利した。この時期に、仏教モダニズム(英語版)という新しい形の仏教が具体化され始めた。これには、仏陀を普通の人間として、仏教を合理的で科学的な宗教であると見なす傾向が見られた。この新しい運動の重要人物には、仏教に改宗したアメリカ人のヘンリー・スティール・オルコット(1832年 - 1907年)、アナガーリカ・ダルマパーラ(1864年 - 1933年)がいる。彼らは仏教徒のための学校を設立し、組織設立の準備をし、新聞を発行した。アナガーリカ・ダルマパーラはまた、荒廃したインドのブッダガヤの遺跡を復元するためにマハー・ボディ協会(英語版)(大菩薩協会)を設立した。ダルマパーラはまた、アメリカやイギリスにまで仏教の教義を伝えに赴いた。 この協会はインドにおける仏教復興(History of Buddhism in India#Revival of Buddhism in India)の先駆けとなり、インド人の知識階層の一部で仏教が受け入れられるようになった。これらの知識階層のなかにビームラーオ・アンベードカル(1891年 - 1956年)がおり、インド仏教復興運動の指導者となって身分の低いダリット(不可触民)のカーストの者を仏教に改宗させた。 ミャンマーにおいては、現代の仏教における中心人物はミンドン・ミン(英語版)王(1853年 - 1878年頃)であり、第5回の(仏典)結集(1868年 - 1871年:Fifth Buddhist councilを参照)を主宰した。第5回結集ではパーリ語経典の異なる版が照合され、最終版が729枚のクトドー・パゴダの三蔵石版(英語版)に刻みこまれた。また、ヴィパッサナー運動(英語版)という新しい瞑想の運動が興った。この運動はメダウィ(英語版)(Medawi。1728年 - 1816年)が創始したもので、仏教の瞑想法実践を推進することに貢献した。1956年、ビルマ(現在のミャンマー)首相のウー・ヌは、第6回(仏典)結集を主宰し、上座部仏教の様々な国から僧が訪れ、パーリ語経典の新版を作成した。近年では、2007年ミャンマー反政府デモ(サフラン革命)において、仏教徒の僧が逮捕されている。 植民地化されなかった唯一の国であるタイには、仏教の僧団(サンガ)の近代化と改革を推し進める2人の王がいた。ラーマ4世(1851年 - 1868年頃)とラーマ5世(1868年 - 1910年頃)で、タイの仏教においていくつかの重要な近代的改革を行った。タイの仏教会の再生に向けた現代の動きとしてはタイ森林派(英語版)(Thai forest tradition)およびワット・プラ・ダマカヤ(英語版)がある。 1893年以降、ベトナム、カンボジアおよびラオスはフランスの植民地であった。ラオスでは1975年に社会主義者が政権を掌握した。広く仏教の僧団に抑圧が行われているということはなかったが、社会主義政権は僧団を管理する機会を窺っていた。しかしながら、カンボジアでは1975年から1979年までの期間に発生したクメール・ルージュ(ポル・ポト派)によるテロによって、仏教の僧団に大きな被害が出た。
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