北上川上流改訂改修計画(1949年)
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「北上特定地域総合開発計画」の記事における「北上川上流改訂改修計画(1949年)」の解説
こうした側面もあって「北上川上流改修計画」はかんがい重視の方向に事業が進められた。ところが北上川流域は今までの河川改修がご破算となるほどの大洪水を、しかも連続して被る非常事態となった。1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と1948年(昭和23年)9月のアイオン台風という、二つの雨台風である。 カスリーン台風は1947年9月15日に房総半島をかすめ利根川を決壊させ首都・東京を水没させたことで有名であるが、北上川流域では台風によって秋雨前線が刺激されて各地に大雨をもたらし、北は盛岡市から南は石巻市に至る北上川沿岸で堤防決壊による浸水被害が多発した。1948年9月16日房総半島に上陸したアイオン台風ではカスリーン台風ほどの浸水被害はもたらさなかったものの、一関市で二日間に403.2ミリという猛烈な豪雨を観測。狭窄部、また流木によって多数の橋が堰き止められて市内に流木が乱入、結果台風全体の死傷者の三分の一を占める473人の死者・行方不明者を出す大災害となった。この時の浸水位は市内のあちこちに記録として残されているが、概ね一階は完全に水没するほどの水位であった。 こうした大災害は戦中の森林乱伐に加え戦争による治水工事の中断、カスリーン台風の復旧作業がままならぬうちにアイオン台風が襲来したという要因、そして何よりも「北上川上流改修計画」で定めた計画高水流量を毎秒約2,000トンも上回る洪水が襲ったことが一関市を始めとする北上川流域に致命的な被害を与えた。この当時は同様の要因で全国の河川は大洪水をもたらしており、水害による国土荒廃が戦後経済復興の最大阻害要因になると危機感を抱いた経済安定本部は、諮問機関である治水調査会に命じて抜本的な河川改修案を作成するように命じた。 「政治的にも北上川を無視することができなくな」ったのである。 治水調査会は1949年(昭和24年)、経済安定本部に河川改修案をまとめて答申した。これは「河川改訂改修計画案」と呼ばれ、北上川を始め信濃川・最上川・利根川など全国12水系を対象として総合的な治水整備を実施する内容であった。特に北上川、江合川・鳴瀬川、利根川、木曽川、淀川、吉野川、筑後川の六水系七河川については「河水統制事業」に沿った形で本流及び主要な支流に多目的ダムを数多く建設して、洪水調節を実施するという内容のものであった。これにより「改修計画」は大幅に変更され、北上川の計画高水流量はアイオン台風の洪水を基準とした毎秒9,000トンに改められ差分をダムや遊水地、堤防建設などで賄うとした。これが「北上川上流改訂改修計画」であり、中断していた「北上川五大ダム」の一つである田瀬ダムの建設が再開され、残り三ダムについても早急な調査と着工を求められた。また、現在の一関第二・第三遊水地の原型でもある「舞川遊水地計画」も計画された。
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