ぜんき‐りょうしろん〔‐リヤウシロン〕【前期量子論】
読み方:ぜんきりょうしろん
前期量子論
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前期量子論(ぜんきりょうしろん、Old quantum theory)は古典力学(統計力学)の時代から、ハイゼンベルクの行列力学、シュレーディンガーの波動力学等による本格的な量子力学の構築が始まるまで(1920年代中頃)の、過渡期に現れた量子効果に関しての一連の量子論的理論[1]。
注釈
- ^ 放射能が原子核の示す現象であることは、ボーアが初めて明言したといわれる。原子核(atomic nucleus)ということばもこのボーアの1913年の論文で初めて使われたといわれる[3]。
- ^ エネルギーについてはプランクの式や光量子仮説として既に知られていた。運動量については、これは特殊相対性理論におけるエネルギーと運動量の関係から導くことができる。特殊相対性理論では質量 m の粒子のエネルギー E と運動量 p の関係はで与えられる。光子は質量ゼロなので、この関係式はと単純化され、プランクの式と合わせれば同式が導き出される。
- ^ ド・ブロイ自身はこれをパイロット波と呼んだ。
- ^ これはアインシュタインにより評価され、博士論文として認められた。
- ^ クリントン・デイヴィソンとレスター・ジャマー(1927年)。その内容は X 線の代わりに、X 線と同じ(ド・ブロイの主張した波長の計算式から計算した)波長を持つ電子線をニッケル単結晶に当て、X 線と同様の回折現象が発生するかということを確認する実験であった。
- ^ ボーアの原子模型では、原子中の電子は原子核の周りを等速円運動すると考え、その円運動の取り得る角運動量はの整数倍に限られると仮定した。このボーアの量子条件は、電子がド・ブロイ波として振る舞うと考えると、「電子の取り得る円軌道は円周長がド・ブロイ波長の整数倍となる軌道に限られる」という条件と一致することになり、電子の物質波が安定して存在できる条件と解釈することができる。
- ^ つまりなぜか波長と振動数が定義できることが判明した。
出典
- ^ 佐々木昭夫編著『現代量子力学の基礎』オーム社、1998年(原著1985年8月)、2頁。ASIN 4274128091。ISBN 978-4274128097。 NCID BN00756807。OCLC 674085675。全国書誌番号:86000623。
- ^ Bohr (1913a)
- ^ 広重 (1968, p. 169)
前期量子論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 21:00 UTC 版)
量子力学が発達する以前にも、その根底にある原理についての深い理解はなされていなかったにせよ、特定の物理量が量子化されるという仮説や、時には粒子と波動の二重性があらわれるということは知られていた。これらの理論は、それぞれに対応する対象を外れると、具体的な予言はできなかった。これら量子力学の先駆けを称して前期量子論と呼ぶことがある。 1900年、マックス・プランクは黒体放射の周波数分布についての観測結果を説明する式を編み出した。このプランクの法則と呼ばれる法則は、黒体上の振動子のエネルギー準位が離散的であることを仮定して導かれたものであった。プランクは、このエネルギーの量子化は物質の性質であって、光そのものの性質ではないと考えていた。このモデルでは、物質が固定されたエネルギー準位しか取ることができないために光は物質と固定のエネルギー量しか交換することができないのであって、光は単に物質の影響を受けているにすぎないとされた。そして、彼はエネルギー量 ΔE と光の周波数 ν の間に ΔE = hν という関係があるということを見いだした。 アルベルト・アインシュタインは1905年、光電効果を説明するためにこれらの概念を拡張し、光そのもののエネルギーの量子化を提唱した。光電効果とは、特定の色の光が金属表面から電子を叩き出すことができるというものである。ここで、光線は常に同じ、周波数に比例する量のエネルギーしか個々の電子に与えることができないものとされ、これは光の性質であるとされた。このため、アインシュタインはエネルギー準位が量子化されているのは物質の内部だけではなく、光そのものも光量子と呼ばれる特定のエネルギー量しか持てないと結論づけた。この概念は、光が純粋に波動的存在であることとは相容れない。従って、光は古典的波でも古典的粒子の流れでもなく、むしろ場合によってそのどちらかの性質を示すものであると考える必要が出てきた。 1913年、ニールス・ボーアは、水素原子のスペクトルを説明するために量子化されたエネルギー準位の概念を用いた。彼の名にちなんでボーアの原子模型と呼ばれるこのモデルでは、水素原子中の電子は特定のエネルギーを持って原子核を周回すると仮定される。ここで、電子は依然として古典的粒子と考えられているが、特定のエネルギーしか持つことができず、そのエネルギーをもって原子核を回る電子は古典電磁力学に反して電磁波を発生させず、エネルギーを失わないという条件が課された。ボーアが用いた仮定の実験的な確認は、1914年のフランク=ヘルツの実験により行われた。特にアーノルド・ゾンマーフェルトにより、水素以外の原子のスペクトルを説明できるよう、ボーアの原子模型は電子が楕円軌道も取れるよう拡張された。しかし、この目標は十分に達成されなかった。また、ボーアは彼の仮定(ドイツ語版)を正当化する理由として、水素原子スペクトル(ドイツ語版)が説明できること以外を挙げられなかった。より深い理解のためには、彼のモデルでは不十分だった。 1924年、 ルイ・ド・ブロイは、全ての物質が波動的性質を示すことがあり、その逆で波も粒子の性質を示すことがあるとする、物質波の理論を発表した。この理論により、光電効果とボーアの原子模型を共通の原因から説明することができた。原子核の周りの電子軌道は定在波と考えられる。この考え方による計算上の電子の波長と、ボーアの原子模型における軌道の周長はよく一致することが確かめられた。しかし、水素以外の原子スペクトルの説明は依然としてできなかった。 ド・ブロイ理論は三年後に二つの独立に行なわれた、電子の回折を検証する実験により確認された。 イギリスの物理学者、ジョージ・パジェット・トムソンは、電子線 に金属薄膜を透過させ、ド・ブロイが予測した干渉縞を観測した。同様の実験は、ベル研究所のクリントン・デイヴィソンとチャールズ・クンスマンにより既に1921年にニッケルによる電子線反射回折を用いて行われていたが、そのころはまだ干渉と解釈されていなかった。デイヴィソンと助手のレスター・H・ジャマー(ドイツ語版)は、1927年に再実験を行い、観測された明瞭な回折パターンをド・ブロイの物質波理論を用い説明した。
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