初期のグラマースクールとは? わかりやすく解説

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初期のグラマースクール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:12 UTC 版)

グラマースクール」の記事における「初期のグラマースクール」の解説

中世以来グラマースクールラテン語(後に他の古典語)を教え学校であった。Scolae grammaticales という用語は14世紀まで広く使われていなかったものの、こうした学校最古のものはカンタベリーキングズ・スクール597年創立)やロチェスターキングズ・スクール英語版)(604年)などのように6世紀から見られた。こうした学校教会言語であるラテン語将来神父僧侶になる者へ教えるため、大聖堂修道院付属していた。音楽典礼用の韻律詩、教会暦のための天文学数学教会運営のための法律などの科目必要に応じて加えられた。 12世紀後半における古代の大学創設以来ラテン語三学英語版)の基盤みなされるうになると、グラマースクールリベラル・アーツ教育入口となった生徒通常14歳なり次第グラマースクール教育を受け、次に大学教会目指したと考えられるウィンチェスター・カレッジ1382年)やイートン・カレッジ1440年)など、教会から独立した最初グラマースクール大学密接な関係にあり、また寄宿学校国民的なものになっていった。これとは対照的に中世自治体創設した初期グラマースクールの例がブリッジノースが1503年創立したブリッジノース・グラマースクール(英語版)である。 16世紀イングランド宗教改革英語版)でほとんどの大聖堂付属学校閉鎖され修道院解散による資金新たに創設され学校に置き換わった。例えウェールズ現存する最も古いブレコンクライストカレッジ1541年創立)やバンガーのフリアーズ・スクール(英語版)(1557年創立)は、ドミニコ会修道院跡地建てられた。エドワード6世治世多く学校出資しグラマースクール重要な出資者になり、ジェームズ1世アーマーのロイヤル・スクール(英語版)を始めとしてアルスター多くの「ロイヤル・スクール」を創立した理論的にはこうした学校全ての人に開かれ学費払えない生徒免除されることになっていた。しかし貧し子供大多数は、彼らの労働家族にとって経済的価値高かったために入学できなかった。 スコットランドの宗教改革英語版)では、グラスゴー大聖堂聖歌学校英語版)(1124年創立)やエジンバラ教会グラマースクール英語版)(1128年)といった学校管理教会からバラ評議会移りバラ新たな学校創設した宗教改革後聖書を学ぶことがますます重要視されるようになり、多く学校ギリシャ語と(場合によっては)ヘブライ語科目加えた。両言語教育は、それらがラテン語系ではないことや、精通した教師の不足が妨げとなった16世紀から17世紀にかけてグラマースクール設立は、例えばティヴァートンの裕福な商人ピーター・ブランデル(英語版)が1604年創立したブランデル・スクール(英語版)のように貴族富裕な商人ギルドによる公共慈善事業になった現存するこれらの学校多く毎年恒例行事として「創設者記念日」が祝われている。通常寄付により地元少年ラテン語時としてギリシャ語教え師匠賃金賄うことで授業料無償化した日の出から日没までの授業内容は、主にラテン語丸暗記であった流暢に操れるようになるために校長によっては英語で話す生徒対する罰を推奨することもあった。生徒文章作成できるになるまでに数年かかり、翻訳始めるのは学校最終学年だったであろうが、修了するまでには偉大なラテン語作家、劇、修辞学に完全に慣れ親しむようになった初歩的な計算能力手書きのような技術軽視され余った時間に習うか、巡回する公証人のような専門家教師として教えられた。 1755年サミュエル・ジョンソンの『辞書』では、グラマースクールを「文法的な教授法言語を学ぶ学校」と位置付けた。しかしこの時期までにこうした言語対す需要大きく減少していた。新たな商業階級は、現代の言語商業科目を必要としていた18世紀創立されグラマースクールのほとんどは、計算と英語も教えた。.。スコットランドではバラ評議会学校カリキュラム更新したため、もはやグラマースクールスコットランドには存在せず、アバディーン・グラマースクール(英語版)のように名を残すのみである。 イングランドでは商業カリキュラム求め都市中産階級圧力は、しばしば新入生から学費徴収する学校管財人支持されたが、従来基金後援を受ける校長抵抗受けた1774年マックルスフィールド・グラマースクール(英語版)法や1788年ボルトン・グラマースクール法のような特別な議会法によって制定法変更できた学校はほとんど無かった。リーズ・グラマースクール(英語版)の管財人校長の間のこうした対立大法官裁判所英語版)の著名な訴訟引き起こした10年後、当時大法官エルドン卿(英語版)は、1805年に「基金本質かように変える権限はなく、ギリシャ語ラテン語教えることを目的とした学校ドイツ語フランス語数学、そしてギリシャ語ラテン語以外の何であれ学ぼうとする学生充ててはならない」と判決した。彼は一部科目古典的な中核となる科目加えることが可能とした妥協案を示したが、この裁定イングランド中のグラマースクール限定的な先例与えたグラマースクールはついに終末迎えたように思われた。

※この「初期のグラマースクール」の解説は、「グラマースクール」の解説の一部です。
「初期のグラマースクール」を含む「グラマースクール」の記事については、「グラマースクール」の概要を参照ください。

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