初期のギャルド・スイスとは? わかりやすく解説

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初期のギャルド・スイス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:39 UTC 版)

ギャルド・スイス」の記事における「初期のギャルド・スイス」の解説

スイス衛兵連隊17世紀初頭創設されたものの、歴代フランス王以前からスイス人兵を雇用していた。ルイ11世講師としてスイス人兵をフランス陸軍入隊させていたし1481年以降彼は自らの近く警備兵としてスイスをおいていた。スイス人兵たちは、1476年グランソンの戦いモラ戦いでその名を知らしめた。 ルイ11世後継者であるフランソワ1世は、ミラノ公国との戦い再開したミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァ領土防衛のためにスイス人兵を雇っていた。1515年のマリニャーノの戦いでフランス軍スイス人兵は対峙した。フランス騎兵隊攻撃勇敢に抵抗したあと、スイス人兵は敗退したフランソワ1世はこうしてミラノ公国再征服した。 マリニャーノの戦い後、1515年11月29日フリブールで、フランススイスとの条約署名した。これは1792年フランス王廃止まで尊重された、永続的な条約であったその後1515年11月7日ジュネーヴ条約によって、スイス側はフランス王仕えスイス人傭兵たちを派遣するようになった。これは1521年フランススイスのカントンとの間に結ばれた同盟条約補完された。スイス人の傭兵戦争時において高い資質備えていた。強力かつ活動的な隣国保護を受けるため、スイス側はフランス王に6,000人から16,000人の兵士提供する誓約した。二カ国は恒久的な共助関係にある同盟国同士であったが、カントンこそがこれら軍隊真の支配者であり、スイス兵士呼び戻す権利保持していた。これらスイス人隊は完全に独立しており、独自の規則武装し、独自の法廷規律定めていた。スイス人士官と兵卒は彼らの属すカントン法律にならい、指示を彼らの言語ドイツ語与えていた。端的に言えばスイス連隊母国そのものであり、こうした規定後で結ばれた全ての合意において確認されていた。フランソワ1世との独占契約結んだ兵士たち大半が、フリブール出身者だった。 1544年、ギヨーム・フローリックはサン・スイス部隊率いてセリソルの戦い勝った1567年スイス衛兵が、コンデ公ルイ1世企てた誘拐から国王シャルル9世守った。彼らは2000人のユグノー騎兵たちに対して正方形布陣をつくり、ラニー国王脱出させた。このため国王10,000人の軍隊を持つアンヌ・ド・モンモランシーのいるパリへ到着することができたのである。同じ年、王妃カトリーヌ・ド・メディシス6000人以上を徴兵したカントン獲得し、『王のスイス衛兵』(Gardes suisses du roi)の名を与えた1571年未来の王アンリ3世と弟のフランソワ王子は、自らに配属されスイス人の射手と矛槍兵従えていた。このスイス人部隊の首領であるモンテスキューは、ジャルナックの戦いでコンデ公ルイ1世殺害している。アンリ3世即位すると、弟に50人のスイス兵を含む私設軍保証した1589年アンリ4世即位すると、スイス兵は2か月分の給料未払に同意したが、一方で軍の半分が王を見捨てて去った

※この「初期のギャルド・スイス」の解説は、「ギャルド・スイス」の解説の一部です。
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