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カトリーヌドメディシス [Catherine de Médicis]

(1519-1589) フランス国王アンリ二世(1519-1559)の妃。バロア王家維持努力ユグノー戦争を引き起こしサン-バルテルミーの虐殺を行なった。他方芸術愛好家でもあった。


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カトリーヌ・ド・メディシス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/10/27 15:57 UTC 版)

カトリーヌ・ド・メディシスCatherine de Médicis1519年4月13日 - 1589年1月5日)は、フランスアンリ2世の王妃。フランス王フランソワ2世シャルル9世アンリ3世の母后[nb 1]

1519年イタリアフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチロレンツォ・デ・メディチの孫)と、オーヴェルニュ伯の娘マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュの間に生まれた。イタリア語名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチCaterina di Lorenzo de' Medici)。

彼女を出産後に母が亡くなり、間もなく父も亡くして孤児となる。1533年ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚する。10人の子を産むが、アンリ2世の寵愛は愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエに独占されていた。1559年に馬上槍試合での事故でアンリ2世が死去し、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼いシャルル9世が即位すると摂政として政治を担うことになる。

国内ではユグノー(フランスカルヴァン派の呼称)とカトリックの対立が激化しており、カトリーヌは融和政策を図るが、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)の勃発を止めることはできなかった。休戦と再戦を繰り返した1572年にパリやフランス各地でプロテスタントの大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)が起こり、カトリーヌは悪名を残すことになる。シャルル9世はこの2年後に死去し、四男のアンリ3世が即位するが、内乱はカトリック陣営のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリとのいわゆる「三アンリの戦い」の様相を呈し、泥沼化する。1588年にアンリ3世は強硬手段に出てギーズ公アンリを暗殺するが、病床にあったカトリーヌは息子の愚行を嘆きつつ程なくして死去した。カトリーヌの死の8ヶ月後にアンリ3世はカトリック修道士に暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。ナバラ王アンリがアンリ4世として即位し、新たにブルボン朝が開かれた。

芸術を愛好し、宮殿の造営や歌謡・演劇の分野で才能を発揮した[1]。また、フランスの食文化を発展させたことでも知られる[2]

イタリア人ではあるが、その生涯の大半がフランス王族としての事跡であるため、便宜上、本項目ではフランス語読みの「カトリーヌ・ド・メディシス」で統一する。


注釈

  1. ^ a b 成瀬治世界の歴史〈15〉近代ヨーロッパへの道』(講談社、1978年)、フィリップ・エルランジェ 『聖バルテルミーの大虐殺』 (磯見辰典訳、白水社、1985年)、オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト 『カトリーヌ・ド・メディシス』(千種堅訳、中央公論社、1982年)、ジョルジュ・リヴェ 『宗教戦争』(二宮宏之、関根素子訳、白水社、1968年)はいずれもカトリーヌの称号として「母后」の用語を用いている。また、ジャン・オリユー 『カトリーヌ・ド・メディシス―ルネサンスと宗教戦争〈上下〉』( 田中梓訳、河出書房新社、1990年)は「王母」としている。
  2. ^ メディチ家の起源を薬剤師とする説が一般的だが、未だ確定的ではなく諸説ある。森田(1999),pp.12-16
  3. ^ 婚約は28日に調印され、式はその翌日に挙行された。Frieda(2005), p.52.
  4. ^ これはフランソワ1世の性的倒錯ではなく、夫婦の交わりがなければ婚姻が成立したとは見なされず、国益に関わるためである。オリユー(1990a),p.129
  5. ^ アンリ2世の認知を受けた庶子ディアーヌ・ド・フランス。アンリ2世は他の女性に少なくともあと2人の庶子を産ませている。Knecht(1998), pp.29–30.
  6. ^ 事件を目撃したイングランド大使ニコラス・スロクモートン (enの報告。Frieda(2005), p.5.
  7. ^ この事件は後にアンボワーズの陰謀 (enとして知られる。Knecht(1998), p.64; Holt(2005), p.44.
  8. ^ 摂政には血統親王が就任する慣わしになっていた。Pettegree(2002), p.154; Hoogvliet(2003), p.105.
  9. ^ 寛容勅令または1月勅令の名で知られるこの勅令はプロテスタント教会の存在を事実上容認し、城壁外での彼らの礼拝を許可していた。Knecht(2001), p.311; Sutherland(1966), pp.11–12.
  10. ^ 反乱軍はエリザベス1世とハンプトンコート条約 (enを締結し、援助の見返りにル・アーブル(後にカレー)の割譲を約束していた。Frieda(2005), p.191.
  11. ^ 彼の妻ジャンヌ・ダルブレはナバラの共同女王に留まっており、彼女の8歳の息子アンリが第一血統親王となった。Frieda(2005), pp.192–93.
  12. ^ 1579年にアラソン公フランソワはエリザベス1世を訪ねており、彼女は愛情を込めて彼に「蛙さん」の愛称をつけたが、いつもと同じように求婚からはうまく逃げた。Holt(2005), p.77; Frieda(2005), p.397.
  13. ^ ジャンヌ・ダルブレは彼女の息子アンリにこう書き送っている。「私は王様や、私を苛立たせる [me traite á la fourche] 母后様と自由にお話をすることはできません;... 貴方は彼らの主目的が貴方を神と私から引き離すことであると疑いなく悟っていることでしょう。」Knecht(1998), pp.148–49.
  14. ^ 検死官は結核と膿瘍と判定している。Knecht(1998), p.151.
  15. ^ 捜査員は家屋からギーズ家へ向かう馬の足跡を追跡し犯人はシャルル・ド・ルヴィエ・ド・モールヴェールであると主張している。Frieda(2005), p.254, pp.304–5; Holt(2005), p.83.
  16. ^ *コリニー提督は国王に対して帝国領ネーデルラントに介入するよう働きかけていた。Knecht(1998), p.154–57.
    *後にアンジュー公は彼とカトリーヌがヌムール公妃アンナ・デステ(先に暗殺されたギーズ公フランソワの未亡人)と共謀して暗殺を計画したと発言している。Frieda(2005), p.292.
    *歴史家たちの様々な解釈については Holt(2005), pp.83–4.を参照。
  17. ^ Holt(2005), p.84.
    • タバンヌ元帥 (enはカトリーヌはテュイルリー宮殿に軍事会議を召集し、次の行動を計画して「提督に対する企ては戦争を引き起こすので、彼女と我々はパリを戦おうとの提案に同意した」と回想している。しかしながら、ほとんど確実なことだがシャルル9世が「皆殺しにしろ」との命令を下したとき、彼が意図していたのはカトリーヌが提出した名簿の人々であり、しばしば言われるようなユグノー全体ではなかった。Frieda(2005), pp.306–8.
  18. ^ ユグノーの「歴史」の女性嫌悪と反イタリア主義はユグノーだけでなくカトリックもフランスの災難のスケープゴートを求める誘惑に駆られていた証を示している。Knecht(1998), pp.163–64; Heller(2003), p.117; Manetsch(2000), pp.60–61.
  19. ^ バリケードの日 (enの名称で知られ、「1世紀半の間で王室の権威と威信を最悪に衰えさせた」Morris(1998), p.260.
  20. ^ アンリ3世はヴィルロワに短い手紙を書き送っている。「ヴィルロワよ、私は貴方の奉仕に大変満足している。だが、間違えるな、家から離れず、私が知らせを送るまでそこに留まれ。この手紙の意味を詮索するな。私に従え。」 Sutherland(1962), pp.300–3.
  21. ^ この発言はカトリーヌの侍医フィリッポ・カヴリアーナを通じてフィレンツェの政府へ伝えられた。Knecht(1998), p.266.
  22. ^ 臨終の床にあったカトリーヌの告解を受けた聴罪司教の名がジュリアン・ド・サン=ジェルマンと知った彼女は自分の死を悟った。ルッジェーリが「サン・ジェルマンの近くで死ぬ」と予言していたからである。オリユー(1990b),pp.531-532.
  23. ^ 虐殺事件を題材とした作品に"Les massacres du Triumvirat"(『三頭政治の虐殺』)がある。
  24. ^ ブラントはカロンの形式を「優雅なだが神経症的な社会に適した、気品のある形式で最も純粋に知られるマニエリスムの様式である」と呼んでいる。Blunt(1999), p.98, p.100.
  25. ^ ロンサールはおそらく亡き夫の遺体を灰にして飲んで自らの体の一部にしたアルテミシア2世の故事を引いているのであろう。Hoogvliet(2003), p.111.

出典

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