世界大不況の時代 (1873年-1896年) とユダヤ資本主義論
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「反ユダヤ主義」の記事における「世界大不況の時代 (1873年-1896年) とユダヤ資本主義論」の解説
詳細は「大不況 (1873年-1896年)」を参照 産業革命によってイギリスは世界経済の中心となったが、19世紀末になると後発資本主義国家のアメリカ合衆国とドイツが成長してイギリスを追い越した。ドイツが統一されドイツ帝国が成立すると1871年から1872年にかけて投機ブームが起こった。しかし、この投機ブームは1873年恐慌からの世界大不況によって終焉を迎え、多くの投資家が破産し、企業の倒産が続いた。1873年恐慌の震源地は米国とドイツであった。その後ドイツは1887年に好況に入ったが、1890年の恐慌はドイツから始まった。1873年から1896年まで展開した世界大不況の時代にヨーロッパ各地で反ユダヤ主義が高まっていった。 ドイツのユダヤ人が全きドイツ国民となり市民権が認められたのはドイツ帝国においてだった。かつて高利貸しなどの金融に限定されていたユダヤ人は法的身分を保障され解放されるともに産業経済に進取的に参入し、さらに国際規模で経済活動を展開し、産業資本主義を発達させるのに主導的な役割を果たした。解放されたユダヤ人は盛んな投資活動を行いさまざまな商工業分野で成功した。進出した業種は金融、繊維、鉄鋼、化学、製油、電気、衣料、鉄道、海運、百貨店、武器弾薬などの軍需産業に及んだ。また、ユダヤ人資本家はドイツ帝国主義を支持してアフリカのダイヤモンド鉱山の開発を主導し、こうしたユダヤ人の国際的な活躍は「国際ユダヤ資本」理論を生み出した。1880年にはフランクフルトの銀行業85%がユダヤ人経営となり、1933年のナチ政権まで全ドイツ百貨店の80%がユダヤ人経営となった。1900年頃、フランクフルトのユダヤ人市民の納税額はキリスト教市民の4倍から7倍にもなった。ユダヤ人の大学入学率はプロテスタントの10倍、カトリックの15倍となった。ユダヤ人は近代化、近代社会の象徴とされ、憎悪された。躍進著しいユダヤ人に対する人々の妬みや反感は反ユダヤ主義の潮流を高めた。ユダヤ人は社会主義者からみれば敵のブルジョアジーであり、反対に資本家の眼には社会主義者・革命家とうつる存在であり、ユダヤ人が国際ネットワークを使って世界支配の陰謀をめぐらすというユダヤ陰謀論(脅威論)が様々な形態をとって繁殖していった。 19世紀末に人種主義的反ユダヤ主義が強かったのはオーストリア・ハンガリー帝国、フランス、ロシアであり、ドイツ帝国でも個人に対する国家の優越、秩序と権威の重視、国際主義と平等への反発などを背景にユダヤへの敵意が膨れ上がった。 フランスでも社会主義者やカトリックからの反ユダヤ主義が強く、ドイツと同様のユダヤ陰謀論が跋扈した。またドレフュス事件は大きな分岐点となり、数々の反ユダヤ主義団体が結成されていった。
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