ブレトワルダとは? わかりやすく解説

ブレトワルダ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 07:54 UTC 版)

ブレトワルダ (Bretwalda) は、アングロサクソン社会の称号のひとつで、イングランド七王国時代、アングロサクソン諸国の中でも最も勢力の強かった王のことを意味したと考えられている。上王や大王、覇王などと訳される。


  1. ^ しかしながらベーダが自らの著作『イングランド教会史』において、列記した王を「ブレトワルダ」とは呼んでいない。単に「インペリウムを保持した」人物として王の名を記述している。
  2. ^ 20世紀の史家フランク・ステントン(Frank Stenton)はアングロサクソン年代記を称して「年代記を書いた者たちの残した不正確さは、このような際立つ王たちに名づけられた英語の称号を残すために辻褄を合わせた以上の功績を後世にもたらした」と語り、ブレトワルダという用語は「最古のイングランド独自の社会制度がゲルマン起源のものであるという他の証拠を後押ししている」と書き残している。
  3. ^ 1995年にサイモン・ケイン(Simon Keyne)は「ベーダの書いた宗主と年代記のブレトワルダが人工的な用語で、この概念が記された文書以外には現実的に実在していなかったとするならば、現代の我々は文書に書かれた歴史の経緯をめぐる憶測問答から逃れうる事ができるだろう。しかし今度は我々は8世紀、9世紀の王たちが覇を唱える事に熱心であったかどうかという事に憶測に終始している事だろう。」と記している。


「ブレトワルダ」の続きの解説一覧

ブレトワルダ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 10:01 UTC 版)

イギリス君主一覧」の記事における「ブレトワルダ」の解説

七王国時代に、諸王の間で台頭して他の王たちを臣従させた王をブレトワルダと呼ぶ。 サセックス王アエレ(477年 - 514年ウェセックスチェルディッチ519年 - 534年ウェセックスチェウリン560年 - 591年ウェセックスイネ688年 - 727年ケントエゼルベルト591年 - 616年イーストアングリア王レドワルド(616年 - 627年) ノーザンブリア王エドウィン627年 - 632年) ノーザンブリア王オズワルド633年 - 641年) ノーザンブリア王オズウィ(641年 - 670年マーシア王エゼルバルド(735年 - 757年マーシアオファ757年 - 796年) エゼルバルドの従兄弟 ウェセックスエグバート828年 - 839年ウェセックスエゼルウルフ839年 - 858年エグバート息子 ウェセックス王エゼルバルド(858年 - 860年エゼルウルフ息子 ウェセックスエゼルベルト860年 - 866年エゼルウルフ息子 ウェセックスエゼルレッド866年 - 871年エゼルウルフ息子 9世紀半ばデーン人侵入後、諸王国で覇権確立したウェセックス王がデーン人戦い次第統一イングランド王国形成していった。

※この「ブレトワルダ」の解説は、「イギリス君主一覧」の解説の一部です。
「ブレトワルダ」を含む「イギリス君主一覧」の記事については、「イギリス君主一覧」の概要を参照ください。


ブレトワルダ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/24 02:43 UTC 版)

チェウリン」の記事における「ブレトワルダ」の解説

後年731年頃、ノーサンブリア修道士にして年代史家のベーダは、「イングランド教会史」を書いた。これには、世俗的なことだけではなくアングロサクソン人歴史に関する多くのことが記されており、その中でハンバー川より南のインペリウム保持した7人の王」に関して触れている。この「インペリウム」を現在の解釈では「宗主権」と訳しているが、チェウリンベーダ記した列記2番目に登場するその中でチェウリンは「サエリン (Caelin)」の綴り書かれている同時に、「かの地人々言葉ではチャウリン (Caeulin) と呼ばれていた」とも書かれているベーダまた、チェウリンキリスト教徒ではなかったと明記しており、最初にキリスト帰依した人物は、チェウリン時代より後年ケント王のエゼルベルトを「神の国入られ最初の人物」としている。 アングロサクソン年代記827年の項目にベーダ記した列記とほぼ同じ形(エグバードを加えた形で)が載せられている。そしてここでは「ブレトワルダ」、または「ブリテン島支配者」として知られていたと明記されており、この表現には、現在に至るまで学術的な関心寄せられている。これを後年年代史家の追従的な表現ととらえることもあったが、その称号中にはっきりとした軍事的な役割があった証拠挙がっている。 ベーダによれば、この王たちは「ハンバー川より南の」権限有していたが、実際支配領域は、少なくとも初期のブレトワルダにおいては間違いなくそれには及ばなかった。チェウリン場合実際に支配していた領域正確に把握するのは難しいが、ベーダチェウリンインペリウム有した諸王一人として選んでいること、チェウリンが関わった戦争勝利として記録されていること、チェウリンテムズ川上流域基盤として周囲大部分支配下に置き、一定期間南イングランドに覇を唱えたことから、チェウリンが行動力のある成功した指導者であったことは読んで取れる。しかし、このような軍事的な成功にもかかわらずチェウリン北部における活動維持されることはなかった。すなわち、後年には、テムズ川流域のほとんどはマーシア支配下になったし、571年ウェセックス獲得した東南部都市大部分ケントマーシア支配下となってしまった。 なお、ベーダの描く宗主権威チェウリン生きた8世紀見方である。「イングランド教会史」の執筆された時代ハンバー川以南に覇を唱えたのはマーシア王国のエゼルバルドであり、ベーダ描いた昔の王たちの記述は、この当時イングランド政治情勢間違いなく大きな影響受けており、ベーダの描くエレチェウリンのような初期のブレドワルダたちの肖像多少時代錯誤要素含まれているのは明らかである。またベーダの描くブレトワルダは覇を唱える対象アングロサクソン諸国のみと考えブリトン人諸国対象外としていた可能性見受けられるチェウリンベーダ列記2番目に来る人物である。全てのブレトワルダたちの在位帰還大なり小なり連続して続いているが、最初のブレトワルダであるサセックスエレ次のウェセックスチェウリンとの間の50年間の開きがある。この後のブレドワルダたちが空白なしで継続されていることが後世執筆された年代記年代実際チェウリン関与したであろうとする年代食い違っているのではという疑問生じている。この分析によると、以下の結果見えてくる。 グレゴリウス1世ケントエゼルベルトに文を送った601年時点ですでにエゼルベルト次のブレトワルダとして覇を唱えていたのは間違いはない。というのは法王たるグレゴリウス1世ケント王国という一地域の王程度に文を送ることはありえないからである。 年代記では前述のウィバウンダンの戦い568年)にチェウリンエゼルベルトを敗ったことになっている。すなわち、この戦いチェウリンエゼルベルト新旧のブレトワルダ双方が関わった戦いである。 エゼルベルト関わる年代正確性にも疑問視がされているが、最近の研究エゼルベルト治世の始まり早くて580年以前ではないとしている。 『西サクソン王族系譜目録』ではチェウリン治世7年17年とされているので、ウィバウンダンの戦い568年に起こることはありえない。 このことから、ウィバウンダンの戦いがその勝敗度外視して590年くらいの出来事だと仮定すれば、それはエゼルベルト覇権を握る以前、そして年代記続いて書き綴られているチェウリン退位と死去へと連続的に続き許容できうる範囲での整合性出てくる。いずれにせよ現在ではウィバンダムの戦い590年はさんで数年以内出来事であったことはほぼ確実視されている。 もうひとつ差異、アエレとチェウリンとの間の空白期間は、ギルダス著作De Excidioの記述にモンス・バドニクスの戦いでアングロサクソン人ブリトン人敗れ、平和が一世代以上続いたことからありえることと考えられている。 チェウリンケント王国エゼルベルトにブレトワルダ位を奪われるが、二人在位一時期重なっている。最近鑑定ではチェウリン在位581年から588年までとし、589年エゼルベルト王位就いたのだろうと考えられている。しかし、このような計算学術上の推測にしか過ぎない。そして592年息子チェオルによるチェウリン退位ここからエゼルベルト台頭始まった可能性がある。少なくとも597年時点までにはエゼルベルトアングロサクソン諸国圧倒する存在となっていたことは確実視されている。あるいはエゼルベルト在位はもっと早かったかもしれない年代記584年のフェサン・レアグの項目で『チェウリン最後勝利と書かれているからである。この期間の間エゼルベルト台頭そしてチェウリン失墜起きた可能性はある。

※この「ブレトワルダ」の解説は、「チェウリン」の解説の一部です。
「ブレトワルダ」を含む「チェウリン」の記事については、「チェウリン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ブレトワルダ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ブレトワルダ」の関連用語

ブレトワルダのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ブレトワルダのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのブレトワルダ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのイギリス君主一覧 (改訂履歴)、チェウリン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS