エゼルウルフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/21 15:09 UTC 版)
エゼルウルフ(Æthelwulf[1]、? - 858年1月13日)はウェセックス王(在位:839年 - 858年)。ウェセックス王エグバートと妃レドブルガの子。アルフレッド大王の父。
- ^ AethelwulfもしくはEthelwulfとも。古英語ではÆþelwulf。「高貴なる狼」を意味する。Æthelwulf of Wessex, Wikipedia英語版(2007年9月4日11:25).
- ^ これらの従来的な統治法は、特にマーシアでみられた。エゼルウルフが導入した統治方法は、カロリング朝にならったものである。Nelson, Æthelwulf (d. 858)’, Oxford Dictionary of National Biography. 以降ODNBと表記する。
- ^ booklandという。それに近い性質の土地所有は、早くは7世紀の第3四半期から現れていた。Yorke, pp.245-251.
- ^ 青山、p154.
- ^ Anglo Saxon Chronicle, s.a. 851.
- ^ 聖ベルタンの年代記によれば、シャルルマーニュは「アングロ=サクソンの王が旅で必要とした食糧その他をすべて提供し、道案内と従者まで用意した」とされる。これについて、ODNB, Æthelwulf. ではAnnals of St Bertin, s.a. 855. を参照している。
- ^ ODNB, Æthelwulf. 同様にR. Davis, ed. and trans., The lives of the ninth-century popes (Liber pontificalis): the ancient biographies of ten popes from AD 817–891 (1995).を参照している。
- ^ Nelsonは、聖別を受けさせるという着想が、787年にマーシアのオファが息子エグフリスに王として聖別を受けさせたことからきている可能性がある、と指摘する。ODNB, Æthelwulf.
- ^ Yorke, p95.
- ^ a b c ODNB, Æthelwulf.
- ^ Asser, Part 1.
- ^ 9世紀の史家Asserは「王国の西側のほうが、東側よりも重要度が高いのは明らか」として、和議が穏便に済まず、エゼルバルド主導だったと主張した。Nelsonはこれを受けて「協定は新たに入手した土地から東側という理解がなされてきたが、おそらくAsserはウェセックス本国を東西に分けたと考えているふしがある。もしそうであるならば、アングロサクソン年代記の18年半、すなわち858年までエゼルウルフがウェセックスを支配していたという記述と矛盾する。アングロサクソン年代記の信憑性を措いても、Asserが反乱の筋書きを見いだした根拠は、いささか苦しいといわざるをえない」と主張する。ODNB, Æthelwulf.
- ^ Asser, Life of Alfred, chap. 12
- ^ フランクの分割相続にならったもので、これが歴史家たちから時代に逆行しているといわれる点である。ODNB, Æthelwulf.
- ^ Asser, Life of Alfred, chapter. 17.
- ^ ベーダ・ヴェネラビリスの遺した記録による。ODNB, Æthelwulf.
- 1 エゼルウルフとは
- 2 エゼルウルフの概要
- 3 子女
固有名詞の分類
- エゼルウルフのページへのリンク