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サンバルテルミーのぎゃくさつ 【―の虐殺】
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サン・バルテルミの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/07/11 12:33 UTC 版)
サン・バルテルミの虐殺(サン・バルテルミのぎゃくさつ フランス語:Massacre de la Saint-Barthélemy)は、1572年8月24日にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件である。聖バルテルミーの虐殺あるいは(英語表記から)聖バーソロミューの虐殺(St. Bartholomew's Day Massacre)とも表記される。
宗教改革者ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。1562年以降、フランスはカトリックとユグノーとの内乱状態(ユグノー戦争)となっていた。
国王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスの提案により、ユグノーとカトリックとの融和を図るため、ユグノーの指導者であるナバラ王アンリ(有力な王位継承権を持つブルボン家当主)と王妹マルグリット(国王シャルル9世の妹)が結婚することになった。1572年8月17日に結婚式が行われ、ユグノーの中心人物であるコリニー提督はじめ多くのユグノー貴族が結婚を祝うためパリに集まっていた。8月22日にコリニーが狙撃されて負傷する事件が起こると、ユグノーは憤り、国王に真相究明を求めた[1]。
2日後、サン・バルテルミの祝日である8月24日、カトリック強硬派のギーズ公の兵がコリニー提督を暗殺し、シャルル9世の命令により宮廷のユグノー貴族多数が殺害された。だが、事態は宮廷の統制を超えて暴発し[2]、市内でもプロテスタント市民が襲撃され、虐殺は地方にも広まり、犠牲者の数は約1万~3万人とされる(後述#犠牲者数節参照)。ナバラ王アンリは捕らえられ、カトリックへの改宗を強制された。だが、内乱はこれでは終わらず、ユグノーは暴君放伐論を唱えてより強硬に抵抗するようになり[3]、穏健派カトリックも独自勢力であるポリティーク派を形成するようになった。
2年後にシャルル9世が死去し、1576年にはナバラ王アンリが逃走してプロテスタントに再改宗した[4]。その後、内乱は新国王アンリ3世(シャルル9世の弟)、カトリック同盟のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリの三つどもえのいわゆる「三アンリの戦い」と呼ばれる泥沼状態に陥る。ギーズ公とアンリ3世が相次いで暗殺された後の1589年にナバラ王アンリが王位を継承する(アンリ4世)。この宗教戦争は1598年にアンリ4世がプロテスタントに一定の制限はあるが信仰の自由を容認したナントの勅令を発するまで続いた[5][6]。
注釈
- ^ 1533年にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、1534年にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こっている。
- ^ コリニー提督は国王に対してスペイン領ネーデルラントに介入するよう働きかけていた。Knecht(1998), p.154–57.
- ^ 歴史家たちの様々な解釈については Holt(1995), pp.83–4.を参照。
- ^ 歴史家マック・P・ホルトはパリに依然として滞在していた「24人から36人の貴族」であったであろうと推測している。Holt(1995), p. 85.
- ^ 歴史家ホルトはカトリックの廷臣たちが指導者ではないプロテスタント個人を救った事例を示して「大虐殺が阻止される可能性があったが一方で、宮廷の高官が虐殺を意図していた証拠はなかった」と結論付けている。Holt(2005), pp. 88-91
- ^ 期間は Garrisson(2000), p. 139, より、また同書では虐殺のあった都市にアルビを加えている。
- ^ ジャニーン・ギャリソンはこの事がボルドーの「火薬に点火した」(met le feu au poudres)とする見方には否定的である。Garrisson(2000), pp. 144-45
- ^ 19世紀半頃における推定値は、その他の詳細とともにユグノーの政治家および歴史家であるフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの著作 A Popular History of France from the Earliest Times, Volume IVに要約されている。
- ^ アクトン卿はこの件について詳細に検討し、「8000人以上である証拠はない」と結論付け、同時代の良質史料は常に最少の人数を示していると述べている。- Lectures on Modern History, "The Huguenots and the League", pp 162–163.
- ^ ヘンリー・ホワイトは詳細に検討して、歴史家たちの推定値の一覧を作成しており、その最大は10万人である。彼自身の推定値は2万人である。White(1868),p.472.
- ^ グレゴリウス13世とモールヴェールの件に関する根本史料はフランス国立図書館に所蔵されている当時の外交文書であり、"De la Ferrière, Lettres de Catherine de Médicis vol. 4 "(Paris: Imprimerie Nationale, 1891)でも解説されている。
出典
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