クーデタの実行とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > クーデタの実行の意味・解説 

クーデタの実行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 00:27 UTC 版)

甲申政変」の記事における「クーデタの実行」の解説

クーデタ計画は、「郵征局」開庁宴会乗じて会場から少し離れた別宮放火おこないその後混乱の中で閔氏政権高官倒して守旧派一掃高宗クーデタ発生名目日本保護依頼日本はそれに呼応して公使館警備の軍を派遣して朝鮮国王保護しその後開化派新政権発足させるというものであった。この計画ネックとなるのが駐留清国兵の存在であったが、金玉均らは、当時フランスとの戦争にあった清国二正面戦争展開するのは困難だろうとの見通し立て決行期日祝宴予定され1884年明治17年12月4日とした。ところが、案に相違して計画実行直前戦闘敗れた清国フランスとの和議に動く一方朝鮮への影響力固守すべく行動したまた、それまで金玉均らを支援してきた井上馨外務卿は、直前になってクーデタへの加担差し止めたであったこうしたなか、計画予定通り実行移された。襲撃用の武器福澤諭吉弟子で『漢城旬報』の刊行であった井上角五郎輸入したものだといわれている。郵征局の祝宴には、朝鮮政府要人英・米・独・清など各国代表のほか、独立党からは洪英植朴泳孝金玉均徐光範尹致昊参加したホスト役洪英植務めアメリカ公使フート通訳として参加した尹致昊には計画の内容知らされていなかった。総勢18名で竹添進一郎公使会合には参加せず、いつでも出動できるよう公使館待機していた。祝宴には島村書記官が竹添公使代理として参加した12月4日夜8時すぎ、李圭完と尹景寿によって別宮に火がかけられたが警護兵に消し止められたため、付近民家放火した金玉均朴泳孝徐光範の3名は王宮急行し宦官賢に対し寝室にあった国王への取り次ぎ頼んだ。しかし、何事があったのかと質問するばかりでいっこうに取り次ごうとしないので金玉均大声をあげ、その物音に気付いた高宗が金らに声をかけた。かれらは国王夫妻正殿から景祐宮に移し清国軍の反乱偽って日本公使救援依頼するよう高宗要請した。あらかじめ待機していた竹添公使日本軍はただちにこれに応じ国王護衛政府軍とともに景祐宮の守りについた当時朝鮮政府では、変事には閣僚王宮かけつけることになっていたので、高官たちがつぎつぎ王宮向かった。この日の夜から翌日未明にかけて、閔泳穆(外衛門督弁)、閔台鎬統理衙門督弁)、趙寧夏吏曹判書)の守旧派事大党)の重臣3名が殺害され王宮入っていた尹泰駿(後営使)、韓圭稷(前営使)、祖淵(左営使)は門外連れ出され殺害された。宦官在賢は、閔妃の命を受けて高宗に「日本人による変事」であることを伝えたため、国王夫妻面前処断された。閔妃の甥で右営使だった閔泳翊は、友人であった洪英植ひそかに護衛をつけてかくまったので無事であった。 翌5日首相にあたる領議政興宣大院君従弟載元、左議政副首相)に洪英植就き朴泳孝前後営使兼左補将、徐光範左右営使兼代理外務督弁右補将として外交・軍事司法要職に、また、金玉均戸曹参判として財政担当として参加する新政権成立宣言した各国にもこれを通告しアメリカ公使フートイギリス領アストン参内した。この日の夕方国王王妃意向により国王一家昌徳宮遷宮したが、これには金玉均強く反対したという。 新政権構成員として名前があがったのは、尹致昊の父尹雄烈朴泳孝の兄泳教、徐載弼、申箕善といった独立党人士のほか、開化派官僚からは金允植金弘集の名があり、さらに、天津幽閉されていた興宣大院君縁者中心とする王家親族名簿に名をつらねた清からの独立とともに挙国一致意識したものであったが、これは必ずしもすべてが本人承諾得た人選」ではなかった。 金玉均甲申日録によれば新政府閣僚夜を徹して話し合い国王稟議経て興宣大院君日を追って還国されること。清国対す朝貢虚礼廃止すること 門閥廃止し人民平等の権利制定すること。才能をもって官を選び、官をもって人を選ぶことのないようにすること 国を通して地租の法を制定し税制改革し役人の不正を防ぎ人民困窮救い国費をゆたかにすること いず内閣組織して内侍女官宦官)の制を廃しそのなかで優秀なものは登用すること 邪悪貪欲にして国家害すること著しいものに対しては罰を定めること 各道でおこなわれる「還上」という過酷な搾取仕組み永久に廃止すること 奎章閣廃止すること 急ぎ巡査設置して窃盗等の犯罪を防ぐこと 恵商公局を廃止すること 近年配流禁固刑処せられた政治犯釈放すること 四営を合わせて一営とし、一営中に兵を厳選したうえで近衛隊設置すること。陸軍大将には王世子皇太子)を擬すること 国内財政をすべて戸曹管轄し、その他一切財務衙門廃止して財政官庁一元化すること 大臣・参賛は定期的に議政所において会議開き政令議定して執行すること 政府六曹以外の冗漫な官庁属するものは罷免し、大臣と参賛が話し合って啓発すること とい内容政治綱領(「革新政綱」)を作成して6日、これを発表した。さらに、宮内省新設して王室内の行事透明性持たせること、国王は「殿下ではなく皇帝陛下」として独立国君主として振る舞うこと、還穀を廃止すことなどが構想されていたといわれる。なお、これは本来80項目から成っていたといわれるが、具体的な内容知られるのは『甲申日録』の伝え14か条だけである。いずれにせよ、この政綱から、旧弊一新しようとする変法自強運動的な性格読み取ることができる。すなわち、少数からなる政府権限集中させて租税財政軍事・警察などの諸点において近代的改革実施する一方従来の宗属関係を廃棄して独立国家としての実をあげようしたものであった

※この「クーデタの実行」の解説は、「甲申政変」の解説の一部です。
「クーデタの実行」を含む「甲申政変」の記事については、「甲申政変」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「クーデタの実行」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「クーデタの実行」の関連用語

クーデタの実行のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



クーデタの実行のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの甲申政変 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS