クーデタの実行
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クーデタ計画は、「郵征局」開庁の宴会に乗じて会場から少し離れた別宮で放火をおこない、その後、混乱の中で閔氏政権の高官を倒して守旧派を一掃、高宗はクーデタ発生を名目に日本に保護を依頼、日本はそれに呼応して公使館警備の軍を派遣して朝鮮国王を保護し、その後、開化派が新政権を発足させるというものであった。この計画のネックとなるのが駐留清国兵の存在であったが、金玉均らは、当時、フランスとの戦争にあった清国が二正面戦争を展開するのは困難だろうとの見通しを立て、決行期日を祝宴の予定された1884年(明治17年)12月4日とした。ところが、案に相違して計画実行直前に戦闘に敗れた清国がフランスとの和議に動く一方、朝鮮への影響力を固守すべく行動した。また、それまで金玉均らを支援してきた井上馨外務卿は、直前になってクーデタへの加担を差し止めたのであった。 こうしたなか、計画は予定通り実行に移された。襲撃用の武器は福澤諭吉の弟子で『漢城旬報』の刊行者であった井上角五郎が輸入したものだといわれている。郵征局の祝宴には、朝鮮政府要人や英・米・独・清など各国代表のほか、独立党からは洪英植、朴泳孝、金玉均、徐光範、尹致昊が参加した。ホスト役を洪英植が務め、アメリカ公使フートの通訳として参加した尹致昊には計画の内容は知らされていなかった。総勢18名で竹添進一郎公使は会合には参加せず、いつでも出動できるよう公使館で待機していた。祝宴には島村書記官が竹添公使の代理として参加した。 12月4日夜8時すぎ、李圭完と尹景寿によって別宮に火がかけられたが警護兵に消し止められたため、付近の民家に放火した。金玉均・朴泳孝・徐光範の3名は王宮に急行し、宦官の柳在賢に対し、寝室にあった国王への取り次ぎを頼んだ。しかし、柳は何事があったのかと質問するばかりでいっこうに取り次ごうとしないので金玉均が大声をあげ、その物音に気付いた高宗が金らに声をかけた。かれらは国王夫妻を正殿から景祐宮に移し、清国軍の反乱と偽って日本公使に救援を依頼するよう高宗に要請した。あらかじめ待機していた竹添公使と日本軍はただちにこれに応じ、国王護衛の政府軍とともに景祐宮の守りについた。当時の朝鮮政府では、変事には閣僚が王宮にかけつけることになっていたので、高官たちがつぎつぎに王宮に向かった。この日の夜から翌日未明にかけて、閔泳穆(外衛門督弁)、閔台鎬(統理衙門督弁)、趙寧夏(吏曹判書)の守旧派(事大党)の重臣3名が殺害され、王宮に入っていた尹泰駿(後営使)、韓圭稷(前営使)、李祖淵(左営使)は門外へ連れ出されて殺害された。宦官の柳在賢は、閔妃の命を受けて高宗に「日本人による変事」であることを伝えたため、国王夫妻の面前で処断された。閔妃の甥で右営使だった閔泳翊は、友人であった洪英植がひそかに護衛をつけてかくまったので無事であった。 翌5日、首相にあたる領議政に興宣大院君の従弟の李載元、左議政(副首相)に洪英植が就き、朴泳孝が前後営使兼左補将、徐光範が左右営使兼代理外務督弁右補将として外交・軍事・司法の要職に、また、金玉均は戸曹参判として財政担当として参加する新政権の成立を宣言した。各国にもこれを通告してアメリカ公使フート、イギリス領事アストンが参内した。この日の夕方、国王・王妃の意向により国王一家は昌徳宮に遷宮したが、これには金玉均が強く反対したという。 新政権の構成員として名前があがったのは、尹致昊の父尹雄烈、朴泳孝の兄朴泳教、徐載弼、申箕善といった独立党の人士のほか、開化派官僚からは金允植、金弘集の名があり、さらに、天津に幽閉されていた興宣大院君の縁者を中心とする王家親族が名簿に名をつらねた。清からの独立とともに挙国一致を意識したものであったが、これは必ずしもすべてが本人の承諾を得た「人選」ではなかった。 金玉均『甲申日録』によれば、新政府の閣僚は夜を徹して話し合い、国王の稟議を経て、 興宣大院君は日を追って還国されること。清国に対する朝貢の虚礼を廃止すること 門閥を廃止し、人民平等の権利を制定すること。才能をもって官を選び、官をもって人を選ぶことのないようにすること 国を通して地租の法を制定して税制を改革し、役人の不正を防ぎ、人民の困窮を救い、国費をゆたかにすること いずれ内閣を組織して内侍(女官や宦官)の制を廃し、そのなかで優秀なものは登用すること 邪悪・貪欲にして国家を害すること著しいものに対しては罰を定めること 各道でおこなわれる「還上」という過酷な搾取の仕組みを永久に廃止すること 奎章閣を廃止すること 急ぎ巡査を設置して窃盗等の犯罪を防ぐこと 恵商公局を廃止すること 近年、配流や禁固刑に処せられた政治犯を釈放すること 四営を合わせて一営とし、一営中に兵を厳選したうえで近衛隊を設置すること。陸軍大将には王世子(皇太子)を擬すること 国内財政をすべて戸曹が管轄し、その他一切の財務衙門を廃止して財政官庁を一元化すること 大臣・参賛は定期的に議政所において会議を開き、政令を議定して執行すること 政府六曹以外の冗漫な官庁に属するものは罷免し、大臣と参賛が話し合って啓発すること という内容の政治綱領(「革新政綱」)を作成して、6日、これを発表した。さらに、宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせること、国王は「殿下」ではなく「皇帝陛下」として独立国の君主として振る舞うこと、還穀を廃止すことなどが構想されていたといわれる。なお、これは本来80項目から成っていたといわれるが、具体的な内容が知られるのは『甲申日録』の伝える14か条だけである。いずれにせよ、この政綱から、旧弊を一新しようとする変法自強運動的な性格を読み取ることができる。すなわち、少数からなる政府に権限を集中させて租税・財政・軍事・警察などの諸点において近代的改革を実施する一方、従来の宗属関係を廃棄して独立国家としての実をあげようとしたものであった。
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