クレイギー大使着任以後の日英関係とは? わかりやすく解説

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クレイギー大使着任以後の日英関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 01:31 UTC 版)

ロバート・クレイギー」の記事における「クレイギー大使着任以後の日英関係」の解説

陸軍畑俊六大将1937年9月14日日記に、中ソ不可侵条約締結際する「英大使館附武官情勢判断」として以下の記述残している。 条約の締結はソが支那赤化すると共に日本牽制せんとする一石二鳥の策にして、偶々日支事変以来苦境立ちし蔣が自己保全窮策として締結せるものなり。 ソは日が対支解決一意邁進し目下、ソ<連>と事を構える意志なきを看破し、且国際情勢特に英の対日情勢不利なるに乗じ其の態度硬化しあり。 ソが将来実力を以て支那援助するや否や主としてソ<連>の国内情勢と我対支解決成否によるべし。 英は支那赤化拒否する観念よりソ支協定成立には反感有するものありといえども一方上海事変以来一意邁進しある日本の対支膺懲成功結果は、自国権益予期以上に急速且抜本的に打撃受くべきを憂慮し日本行動努めて抑制せんとする態度出で、ソ<連>の対支援助もソ<連>の強硬政策対する当然の報なるが如き感想有しあり。 日ソ開戦対する英の態度初め中立標榜しつつ独の対ソ積極行動抑制し日ソ決定的勝敗決せざるに先ち調停出で極東に於ける自己権益確保増大策するならん。(19) ようするに、当時日本側から見れば英国ソ連大陸における赤化戦略察知し憂慮さえしていたが、これに対抗する日本行動イギリスの在権益毀損した時、日本行動容認しないどころか英国蔣介石の側にソ連と共に立ったとみえたのであるまた、そのような情勢のなか日本世論では屈服しない蔣介石政権背後控えたアカ」のソ連道義的支援を行うイギリス存在問題視し、そして事変経過と共に世論激昂ついには1937年10月(-38年2月)大規模な反ソ反英運動にまで発展した。 特にイギリス対す反英意識1939年7月(-9月)に高揚し天津租界事件解決する為に開かれた有田・クレイギー会談目標展開され全国的な運動動員数1937年の数倍に達し運動の対象イギリスのみに絞られた。(20) 『対支問題根本的解決とは、対ソ対英戦争誘発不可避とするものにして、即ち世界第二次大戦覚悟しなければならない』(純正日本主義青年運動協議会1937年8月1日)(20)英国政府英国民が、中国蔣介石同情気持ちを抱くのには驚かない。(中略中国に持つ権益考えると、彼等同情するのも理解できる。しかし、アンフェア反日煽動には、われわれも黙っている訳にはいかない」(1937年10月1日参謀本部第二部部長本間雅晴のクレイギー宛書簡) 陸軍大臣杉山元:<日本中国領土的野心持たないこと、外国権益最大限尊重することを強調し>「われわれの見解理解されていないのは非常に遺憾です。日本軍日本のみならず極東世界のために戦ってます。このままでは、ボルシェヴィズム脅威中国から日本にも波及してしまいます クレイギー:「この戦争で、かえってボルシェヴィズム影響増していますよ。もし日本誤解されていると思うなら、ブリュッセルの9カ国条約国会議の場で、世界納得させるべきでしょう」(1937年10月21日、於市ヶ谷陸軍省。1937.10.22英国外務省報告)(21) また、上述した「英大使館附武官情勢判断」は駐日英国大使館陸軍武官フランシス・ピゴット少将による情報であるが、クレイギー大使ピゴット少将第一次世界大戦以来旧知間柄であり、ロンドン大学のアントニー・ベスト教授はその研究の中で、クレイギー大使考え対すピゴット少将影響強調している。(22)(23) つまり、クレイギー大使ピゴット少将通じて日本とりわけ帝国陸軍の対赤露安全保障政策とも言うべきコンセンサスをおそらく認識していたのであり、より根本的にアジア日本が「新秩序」を追求する理由とそれが英国巨視的な国益背馳するのであるのか、という疑念持っていたと思われる1939年10月日英対立深刻化する中、クレイギーは『日英間に現在ある誤解70%は無知な偏見基づいた意味の無いものであり、20%純粋に誤解であり、現実難題提起しているといえるのは、わずか10%にすぎない』と所感述べピゴット少将彼に喝采送っている。(24)クレイギーの考えは、英国外務省極東部とは対蹠的であり、彼に影響与えたF.S.Gピゴットやその後継の駐日英陸軍武官延いては陸軍省考えに近いモノであったカルガリー大学歴史教授であるジョン・フェリス日本対す英陸軍根底にあった考えについてこう述べている。 『英参謀本部日本軍の力を正しく評価し日本が敵よりも味方でいることを望んでいた。1920年から21年の間、陸軍省政府いかなる省庁よりも強く日英同盟延長求めた1937年まで、陸軍省日本潜在的同盟国として続けていた。同省は両国の間に根本的な利害衝突がなく、かつソ連という共通の脅威があると考えた日本アジア安定維持してくれているため、英国ロシア再興したドイツという、英陸軍懸念する大問題に容易に対処できる信じていた。』(25) クレイギーはこのような考え共有し、対赤露安全保障政策という観点から英国巨視的な国益日本背馳しない事を認識していたのであり、だからこそイギリス本国対日戦回避する努力意図的に怠り、「当時チャーチル勝利への展望もたらす思われる唯一の政策、即ち米国との一致協力追求し」た事を、帰国後、痛烈に批判する報告書提出したのである。(「」内は後述するアントニー・ベスト教授による記述抜粋)

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