クレイギー大使着任以後の日英関係
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「ロバート・クレイギー」の記事における「クレイギー大使着任以後の日英関係」の解説
陸軍畑俊六大将は1937年9月14日の日記に、中ソ不可侵条約締結に際する「英大使館附武官の情勢判断」として以下の記述を残している。 蘇支条約の締結はソが支那を赤化すると共に日本を牽制せんとする一石二鳥の策にして、偶々日支事変以来苦境に立ちし蔣が自己保全の窮策として締結せるものなり。 ソは日が対支解決に一意邁進し目下、ソ<連>と事を構えるの意志なきを看破し、且国際情勢特に英の対日情勢不利なるに乗じ其の態度を硬化しあり。 ソが将来実力を以て支那を援助するや否やは主としてソ<連>の国内情勢と我対支解決の成否によるべし。 英は支那の赤化を拒否する観念よりソ支協定成立には反感を有するものありといえども、一方上海事変以来一意邁進しある日本の対支膺懲成功の結果は、自国権益が予期以上に急速且抜本的に打撃を受くべきを憂慮し、日本の行動を努めて抑制せんとする態度に出で、ソ<連>の対支援助もソ<連>の強硬政策に対する当然の報なるが如き感想を有しあり。 日ソ支開戦に対する英の態度は初め中立を標榜しつつ独の対ソ積極行動を抑制し、日ソ決定的の勝敗決せざるに先ち調停に出で極東に於ける自己権益の確保増大を策するならん。(19) ようするに、当時の日本側から見れば、英国はソ連の大陸における赤化戦略を察知し憂慮さえしていたが、これに対抗する日本の行動がイギリスの在華権益を毀損した時、日本の行動を容認しないどころか英国は蔣介石の側にソ連と共に立ったとみえたのである。 また、そのような情勢のなか日本の世論では屈服しない蔣介石政権の背後に控えた「アカ」のソ連と道義的支援を行うイギリスの存在を問題視し、そして事変の経過と共に世論は激昂、ついには1937年10月(-38年2月)大規模な「反ソ・反英」運動にまで発展した。 特にイギリスに対する反英意識は1939年7月(-9月)に高揚し、天津租界事件を解決する為に開かれた有田・クレイギー会談を目標に展開された全国的な運動は動員数で1937年の数倍に達し、運動の対象はイギリスのみに絞られた。(20) 『対支問題の根本的解決とは、対ソ対英戦争の誘発を不可避とするものにして、即ち世界第二次大戦を覚悟しなければならない』(純正日本主義青年運動協議会、1937年8月1日)(20) 「英国政府と英国民が、中国と蔣介石に同情の気持ちを抱くのには驚かない。(中略)中国に持つ権益を考えると、彼等に同情するのも理解できる。しかし、アンフェアな反日煽動には、われわれも黙っている訳にはいかない」(1937年10月1日付参謀本部第二部部長本間雅晴のクレイギー宛書簡) 陸軍大臣杉山元:<日本が中国で領土的野心を持たないこと、外国権益は最大限尊重することを強調し>「われわれの見解が理解されていないのは非常に遺憾です。日本軍は日本のみならず、極東、世界のために戦っています。このままでは、ボルシェヴィズムの脅威が中国から日本にも波及してしまいます クレイギー:「この戦争で、かえってボルシェヴィズムの影響は増していますよ。もし日本が誤解されていると思うなら、ブリュッセルの9カ国条約国会議の場で、世界を納得させるべきでしょう」(1937年10月21日、於市ヶ谷の陸軍省。1937.10.22英国外務省報告)(21) また、上述した「英大使館附武官の情勢判断」は駐日英国大使館附陸軍武官のフランシス・ピゴット少将による情報であるが、クレイギー大使とピゴット少将は第一次世界大戦以来の旧知の間柄であり、ロンドン大学のアントニー・ベスト教授はその研究の中で、クレイギー大使の考えに対するピゴット少将の影響を強調している。(22)(23) つまり、クレイギー大使はピゴット少将を通じて日本のとりわけ帝国陸軍の対赤露安全保障政策とも言うべきコンセンサスをおそらく認識していたのであり、より根本的にはアジアで日本が「新秩序」を追求する理由とそれが英国の巨視的な国益に背馳するものであるのか、という疑念を持っていたと思われる。 1939年10月、日英の対立が深刻化する中、クレイギーは『日英間に現在ある誤解の70%は無知な偏見に基づいた意味の無いものであり、20%は純粋に誤解であり、現実の難題を提起しているといえるのは、わずか10%にすぎない』と所感を述べ、ピゴット少将は彼に喝采を送っている。(24)クレイギーの考えは、英国外務省極東部とは対蹠的であり、彼に影響を与えたF.S.Gピゴットやその後継の駐日英陸軍武官、延いては陸軍省の考えに近いモノであった。 カルガリー大学の歴史教授であるジョン・フェリスは日本に対する英陸軍の根底にあった考えについてこう述べている。 『英参謀本部は日本軍の力を正しく評価し、日本が敵よりも味方でいることを望んでいた。1920年から21年の間、陸軍省は政府のいかなる省庁よりも強く日英同盟の延長を求めた。1937年まで、陸軍省は日本を潜在的同盟国として見続けていた。同省は両国の間に根本的な利害の衝突がなく、かつソ連という共通の脅威があると考えた。日本がアジアの安定を維持してくれているため、英国はロシアと再興したドイツという、英陸軍の懸念する二大問題に容易に対処できると信じていた。』(25) クレイギーはこのような考えを共有し、対赤露安全保障政策という観点から英国の巨視的な国益は日本と背馳しない事を認識していたのであり、だからこそイギリス本国が対日戦を回避する努力を意図的に怠り、「当時チャーチルが勝利への展望をもたらすと思われる唯一の政策、即ち米国との一致協力を追求し」た事を、帰国後、痛烈に批判する報告書を提出したのである。(「」内は後述するアントニー・ベスト教授による記述を抜粋)
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