アメリカ合衆国本土への爆撃
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「藤田信雄」の記事における「アメリカ合衆国本土への爆撃」の解説
1942年4月21日、軍令部に呼び出された藤田は、その場で首脳部より単独によるオレゴン山中への空爆命令を拝する。藤田の操縦の腕を買われたものだった。 藤田にはこの作戦で生還する自信がなく、出発前日の8月14日に家族に宛てた遺言書を残している。8月15日、藤田は横須賀より伊25でアメリカへと向かった。9月9日水曜日の午前6時、伊25はカリフォルニア州とオレゴン州の境界線の西側に浮上した。藤田と奥田兵曹が搭乗するE14Yは2個の焼夷弾(合計155キログラム)を積み飛び立った。藤田の投下した焼夷弾のうち1個はオレゴン州のエミリー山脈のホイーラーリッジに落ちている。もう片方の爆弾の落下地点は不明である。ホイーラーリッジに落ちた焼夷弾によりブルッキングズの東約15キロの地点でぼやが発生したが、アメリカ林野部によってすぐに鎮火され、結果として木が一本燃えただけであった。その前夜に雨が降っていたため森林はとても湿っており、結果として爆弾の効力はほぼなかった。帰国後、当初上官からは大火災を起こしたと褒められたが、後に真実がわかった際、藤田は上官より「木を一本折っただけではないか」と叱責されたという。 藤田の乗った飛行機はシスキュー国有林の監視台にいた2人の男性、ハワード・ガードナーとボブ・ラーソンによって発見される。他の監視役(チェクトポイント監視台とロングリッジ監視台)は敵機来襲を報告したものの、濃霧のためそれを確認することはできなかった。また、藤田機はブルッキングズを通過した際にも多くの人々に目撃されている。同日正午ごろ、エミリー山脈の監視台にいたハワード・ガードナーが煙が上がっていることを報告し、4人のアメリカ林野部の作業員によって、この火災が日本の爆弾によって引き起こされたものであることが判明した。その後、爆弾の先端部分を含む約25キログラムの断片がアメリカ軍に引き渡された。 爆撃実施後、伊25は警戒中のアメリカ陸軍航空軍の航空機によって攻撃を受ける。オレゴン州ポートオフロードの海底に潜っていた潜水艦の支援を受けてのものだった。アメリカ軍の攻撃によりいくらかのダメージを受けたにもかかわらず、3週間後の9月29日、藤田は2回目の爆撃を行うため出撃する。ケープブランコ灯台を目印にし、東への90分後のフライトの間に藤田は爆弾を投下し炎を見たと報告したが、爆撃はアメリカ側には認知されることなく終わった。 伊25はSSカムデンとSSラリー・ドヘニーを撃沈し帰還した。日本へ帰る途中、アラスカ州ダッチハーバーとカリフォルニア州サンフランシスコの間を通行中だったソビエト連邦の潜水艦L-16を、アメリカの潜水艦と間違えて撃沈した(当時、日本とソ連は日ソ中立条約を結んでおり、戦争状態になかった)。 1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の航空機による爆撃である。 藤田はその後も偵察を主な任務として日本海軍のパイロットを続け、海軍特務少尉に昇進した。1943年(昭和18年)9月1日より鹿島海軍航空隊に着任、航空隊付教官となった。藤田は1945年(昭和20年)2月16日に、速度性能と武装で決定的に不利であった零式観測機でグラマンF6Fを迎撃し、格闘性能を活かして1機を未確認撃墜(藤田は撃破を確認、近隣の香取空がF6Fの墜落を確認)するという戦果を上げた(ただし、藤田と同時に迎撃した5機の零式観測機と2機の二式水上戦闘機の大半は撃墜されている)。終戦直前に特別攻撃隊に志願し第二河和海軍航空隊へ異動、教え子だけでは無く、藤田自身が特攻隊として突入することを想定して自身も訓練を行った。訓練は強風を使用しており、胴体が太く前方視界が悪い所為か、飛行経験が浅い搭乗員達には離着水が難しく、技量の向上は思うように進まなかったが、当時第二河和空にいた皐月雅昭一飛曹によると、「藤田中尉は何でもないように飛び上がり、直ぐにスタントを始めた」と記している。終戦後、藤田は特務士官たる海軍中尉に昇進した。
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