ジョルダーノ・ブルーノ ジョルダーノ・ブルーノの概要

ジョルダーノ・ブルーノ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/02 05:19 UTC 版)

ジョルダーノ・ブルーノ
Giordano Bruno
ジョルダーノ・ブルーノ
生誕 1548年
ナポリ王国 ノーラ
死没 1600年2月17日
教皇領 ローマ
時代 ルネサンス哲学
地域 ヨーロッパ
研究分野 哲学
自然哲学
天文学
記憶術
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生涯

ナポリ時代(1548年–1575年)

1548年にナポリ王国ノーラ(現在のイタリアカンパニア州)で生まれた。もともとはフィリッポ・ブルーノ (Filippo Bruno) という名前であり、父ジョヴァンニ・ブルーノは兵士であった。1562年、14歳のときナポリに移り、ナポリ大学で学んだ。1565年、17歳でドミニコ会に入会、ジョルダーノを名乗った。1572年に司祭に叙階され、1575年にはトマス・アクィナスおよびペトルス・ロンバルドゥスについての論文によって神学博士となった。

ブルーノがトマス・アクィナスへ向けた尊敬は生涯にわたるものであったが、ナポリ時代にすでに独自の思想を育みはじめていた。エラスムス偽ディオニシウス・アレオパギタニコラウス・クザーヌスライムンドゥス・ルルスなどの神学者たち、プラトンおよび新プラトン主義プロティノスポルピュリオスイアンブリコスプロクロスなど)やエピクロス主義(とくにルクレティウス)やピュタゴラス主義セネカといった古代哲学、さらにはヘルメス主義アヴィケブロンクレスカスなどのユダヤ人哲学者の思想やカバラアヴェロエスはじめアラビア思想、フィレンツェ・プラトン主義(マルシリオ・フィチーノピコ・デラ・ミランドラ)というように、ブルーノの哲学思想の源泉は多岐にわたっている。後年は一貫して批判し続けるアリストテレスについても、ナポリ時代に熱心に研究し、多くのことを学んだ。

放浪時代(1576年–1592年)

1576年、異端の嫌疑をかけられたブルーノは、異端審問所の追及を逃れようとナポリを離れ、しばらくのローマ滞在を経て、北イタリア各地で文法や天文学などを教えながら放浪生活を送った。1578年にはアルプス山脈を越えてフランスに入り、翌1579年にはスイスのジュネーヴに滞在した。ジュネーヴ大学に在籍し、一時的にカルヴァン派に接近するが、改宗までしたかどうかは定かでない。また、すぐにジュネーヴ大学のカルヴァン派哲学者と論争を巻き起こし、名誉毀損で訴えられて有罪となり、ジュネーヴを離れた。同年、トゥールーズに移ったブルーノは、トゥールーズ大学の正規の講師となり、アリストテレス『魂について』の講読註解をおこなった。以後、2年近くをトゥールーズで過ごした。

1581年パリに移住し、優れた記憶力が話題となって、フランス国王アンリ3世とも会見した。ソルボンヌ大学で正規の教授職を得ることはできなかったが、翌1582年に王立教授団(コレージュ・ド・フランスの前身)の講師に任命された。1583年、ブルーノはアンリ3世の推薦書を持ってイギリスに赴き、オックスフォード大学での教授職を得ようとしたが、同地で受け入れられず、イギリスで教壇に立つという望みは果たされなかった。だが、ロンドンに滞在する2年半のあいだに、ブルーノ前半期の主著とされる6つの対話篇『聖灰日の晩餐』『原因・原理・一者について』『無限・宇宙・諸世界について』『傲れる野獣の追放』『天馬のカバラ』『英雄的狂気』を上梓した。

1585年、パリに戻ったが、アリストテレスの自然哲学を批判した120のテーゼが問題とされた上、数学者ファブリツィオ・モルデンテ英語版との裁判に巻き込まれ、ドイツへと去った。ドイツではマールブルク大学での教授職は得られなかったが、ヴィッテンベルク大学での教授許可を得ることができ、アリストテレスについて2年間講義した。1588年にヴィッテンベルクを去り、今度はボヘミアのプラハに現れた。そこでルドルフ2世に300テーラーという年俸を保証されたが、教授職は得られなかった。どうしても教壇に立ちたいブルーノはヘルムシュタットに移ったが、ルター派の権威者たちの反感を買い、ここも立ち去ることになった。

1591年、放浪を繰り返していたブルーノはフランクフルト・アム・マインにいた。ブルーノ後半期の主著とされる3部作『三つの最小者について』『モナド論』『測り知れざる巨大者について』はこのとき刊行された。同年、ブルーノは、ヴェネツィアの貴族ズアン・モチェニゴから記憶術の指南を受けたいという招請を受けた。モチェニゴ家はヴェネツィアでも屈指の大貴族であり、ブルーノはイタリアに戻る決意をした。ヴェネツィアに向かう途中、パドヴァに滞在し、空席となっていたパドヴァ大学の数学教授の座を得ようとするも、結局ガリレオ・ガリレイに教授職を持っていかれてしまった。ヴェネツィアに来たブルーノは、モチェニゴの家庭教師を2か月つとめた。だが、そのモチェニゴによって訴えられ、1592年、ヴェネツィア官憲によって逮捕された。さらに、ブルーノのことを聞きつけた異端審問所が介入し、最終的にローマの異端審問所に引き渡された。

ローマ時代(1593年–1600年)

カンポ・デ・フィオーリ広場にある像
同上

1593年にローマに移されて以降、裁判はなかなか実施されず、ブルーノは7年を獄中で過ごした。彼への告発理由は神への冒瀆、不道徳な行為、教義神学に反する教説であり、ブルーノの哲学と宇宙論にみられるいくつかの点も問題とされた。ブルーノは教皇クレメンス8世に直接面会して自説の一部を撤回することを明言すれば嫌疑は晴れると考えていたが、クレメンス8世はこれを拒絶し、異端審問の開始を命令した。

異端審問が行われると、当時の異端審問所の責任者であった枢機卿ロベルト・ベラルミーノはブルーノに対し、自説の完全な撤回を求めたが、ブルーノは断固としてこれを拒絶した。結果、罪状は24に上り、上記に加えて魔術・占術の信奉、マリアの処女性の否定、輪廻説の支持などが挙げられた。1600年1月8日、ベラルミーノはブルーノを異端とし死刑判決を下した。同年2月17日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオーリ広場に引き出されたブルーノは火刑に処された。処刑の様子はブレスラウの学生ガスパール・ショップ (Gaspar Schopp) が目撃し、家族へ送った手記により後世に伝えられている。それによると、ブルーノは処刑を宣告する執行官に対して「私よりも宣告を申し渡したあなたたちの方が真理の前に恐怖に震えているじゃないか」と言い、結果舌枷をはめられた。さらに、刑の直前に司祭が差し出した十字架へは侮蔑の一瞥をくれただけで顔を背け、死の際には1つも声を発さなかったという。遺灰はテヴェレ川へ投げ捨てられ、遺族に対しては葬儀ならびに墓の造営も禁じられた。

死後

ブルーノの著作のすべては1603年禁書目録に加えられた。それでも、著作のほとんどはパリ・ロンドン・フランクフルトなどイタリア半島の外で出版されていたため、わずかではあったが流通しつづけた。

17世紀から18世紀にかけては、ピエール・ベールマラン・メルセンヌが、著作のなかでブルーノ哲学をとりあげた。ヨハン・ベルヌーイゴットフリート・ライプニッツ宛の書簡で、ルネ・デカルト渦動説がブルーノ宇宙論の剽窃だと書いた。アイルランドの哲学者ジョン・トーランドは、ブルーノの著作を英訳出版し、積極的な普及活動を行った。そのトーランドの影響もあってか、フランスでは匿名の自由思想家によって地下文書『ジョルダーノ・ブルーノ復活』が書かれ、広く読者を得た。

19世紀には、ドイツでの汎神論論争のなかで『原因・原理・一者について』の抜粋がドイツ語訳され、ドイツ語圏の哲学者たちの関心を惹くことになった。なかでもフリードリヒ・シェリングは、ブルーノを主人公とした対話篇『ブルーノ』を著した。また、イタリア統一運動(リソルジメント)が高揚するなかで、イタリアでもブルーノへの関心が高まり、著作集の編纂や伝記考証など実証研究が行われるようになった。

ブルーノが完全に名誉回復されたのは、20世紀に入ってからである。カトリック教会の歴史における負の遺産の清算を訴えた教皇ヨハネ・パウロ2世のもとで、ブルーノに対する裁判過程が再検証され、「処刑判決は不当であった」という判断が下された。この動きはもともとナポリ大学の神学部のドメニコ・ソレンティーノ教授らによって始められたもので、これによって1979年、カトリック教会は公式に異端判決を取り消した[1]


  1. ^ ジョルダーノ・ブルーノという修道僧にして哲学者
  2. ^ ジェイ・イングラム『天に梯子を架ける方法 科学奇想物語』中村和幸訳、紀伊國屋書店、2000年4月、[要ページ番号]頁。ISBN 4-314-00865-2  - 原タイトル:The barmaid’s brain and other strange tales from science.
  3. ^ 月面クレータ、ジョルダノ・ブルーノの形成年代に関する研究成果”. 会津大学先端情報科学研究センター (2009年11月18日). 2012年5月13日閲覧。
  4. ^ 宇宙航空研究開発機構 編『月のかぐや』新潮社、2009年11月、22頁。ISBN 978-4-10-320021-5 
  5. ^ 他は、根占献一「第1部 マルシリオ・フィチーノ」、伊藤博明「第2部 ピコ・デッラ・ミランドラ」、伊藤和行「第3部 ピエトロ・ポンポナッツィ」。


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