魏志倭人伝 魏志倭人伝の概要

魏志倭人伝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 01:46 UTC 版)

『魏志倭人伝』
(ぎしわじんでん)
三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人
著者 陳寿
発行日 3世紀末(280年呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)
ジャンル 歴史
西晋
言語 漢文
形態 紀伝体の歴史書
前作三国志』中の「魏書」第29巻
次作三国志』中の「蜀書」第31巻
コード (ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08044-9
(岩波文庫)ISBN 4-00-334011-6
(講談社学術文庫)ISBN 978-4-06-292010-0
(中公新書)ISBN 978-4-12-102164-9
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概要

『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく[注釈 2]、『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に倭の記述がある。 中国の正史中で、はじめて日本列島に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している[2]

当時の(後の日本とする説もある)に、女王の都する邪馬台国を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本列島を知る史料となっている。

景初2年(238年)に、邪馬台国女王卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとあり、これが事実であれば、拝謁した皇帝は曹叡ということになるが、この遣使の年は景初3年であるという異説(梁書倭国伝など)もあり、その場合には使者が拝謁したのは曹芳ということになる[3]

しかし、必ずしも当時の日本列島の状況を正確に伝えているとは限らないこと[4]から、邪馬台国に関する論争[5]の原因になっている。 また、一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者が一定数いる。岡田は、位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠けるとの見解[6]を述べている。宝賀寿男は「『魏志倭人伝』が完全ではなく、トータルで整合性が取れていないし、書写期間が長いのだから、手放しで同時代史料というわけにはいかない。『魏略』は『三国志』より先行成立は確実とされるが、現存の逸文には誤記も多い」ことを指摘している[7]。さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は、『三国志』の「魏書」と同様に魏志倭人伝は著者である陳寿が実際に朝鮮半島や日本に訪問して書かれた文献ではなく、あくまで噂や朝鮮半島や日本に訪問したことがある人々からの聞伝えで書かれていて信憑性には疑問があると述べている。『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪んだ記述)が含まれている」との見解を述べている[8]

版本

現存する数種の版本のうち、宮内庁書陵部蔵の「南宋紹煕年間の刻本」が最善本とされているが、後述のように異論もある。この刻本を「紹煕本」(しょうきぼん)という。

「紹煕本」を魏志倭人伝を含む正史『三国志』の最善本と鑑定したのは正史の原文校訂に尽力した民国時代の学者・張元済である。張は各種の版本を検討した結果、「紹煕本」は非常に優れていると提唱した。清朝の武英殿版正史の校訂を行った考証学者の本文研究とも合致しているというのがその理由である。[9]

この説には安本美典らによる批判がある。安本らは「紹煕本」を最善のテキストだと認めない。安本らは「紹煕本」を民間の粗雑な刻本(坊刻本)とし、しかも刊行年代は慶元年間のものだとしている。安本らはもう一つの善本である南宋紹興本を評価している。[10]

「紹煕本」を元に張元済が刊行したのが百衲本(ひゃくのうぼん)である。ただし、張は「紹煕本」の欠けている三巻[注釈 3]をもう一つの善本である南宋紹興刻本で補っている。[11]

活字本としては現在の中国で諸本を校訂し、句読点を付した「中華書局本」が(初版1959年、北京)、日本でも入手可能である。また、返り点をつけたものとして、講談社学術文庫『倭国伝』(藤堂, 竹田 & 影山 2010)がある。

「倭人伝」は、百衲本の影印版を見れば段落もなく書かれているが、中華書局版と講談社学術文庫版では6段落に分けられている。内容的には、大きく3段落に分けて理解されて[12]いる。

なお、版本・引用文ごとの主な異同を記せば以下のようになる。細かい異同はもっと多いが、論争になっている箇所のみをあげた。引用文については、魏志からの引用であることが明記されているものに限った。

紹煕本 紹興本 隋書 太平御覧 梁書 北史
對海國 對馬國 對馬國
投馬國 投馬國 於投馬國 投馬國
邪馬壹國 邪馬壹國 邪馬臺國 耶馬臺國 祁馬臺國 邪馬臺國
郡支國 都支國
壹與 壹與 臺挙 臺與 臺與

注釈

  1. ^ 岩波文庫では書名の一部として「魏志倭人伝」の五文字を採用している。(和田 & 石原 1951)、(石原 1985)。
  2. ^ ただし、岩波文庫に収録された影印には、「倭人伝」の文字があるので、倭人伝と呼ぶことに不都合はないとする考えもある。
  3. ^ 魏書武帝紀などで、魏志倭人伝とは無関係
  4. ^ 姚思廉の『梁書』巻54「諸夷伝」は、遣使の年を景初3年(239年)とし、『日本書紀』の神功皇后39年(年の干支は太歳己未)の分注で引用される『魏志』も、明帝景初3年6月とする(このほか『太平御覧』巻782「四夷部3・東夷3・倭」の条に引用する『魏志』も景初3年とする)。魏が帯方郡を治めたのは、景初2年初に劉昕を帯方太守に任じ派遣し占領した後である(『三国志』魏志公孫淵伝によれば公孫淵司馬懿に殺されたのは8月23日)。これらのことから、講談社学術文庫の注では「『三国志』の誤り」としている。

出典

  1. ^ 中華書局版『三国志』(北京、1959年)の「出版説明」にある。
  2. ^ 「時代の順として冒頭にかかげた」(藤堂, 竹田 & 影山 2010, p. 19)
  3. ^ 至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢、魏以爲親魏王、假金印紫綬。『梁書 巻五十四 列伝第四十八 諸夷伝 倭国伝』
  4. ^ (西尾 1999)、(西尾 2009a)
  5. ^ 岡本 (1995)に各説の概要が記述されている。
  6. ^ 岡本 (1995, p. 76)に岡田説が引かれている。
  7. ^ 宝賀寿男「邪馬台国論争は必要なかった-邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-」『古樹紀之房間』、2015年。
  8. ^ 渡邉 2012, p. ii.
  9. ^ 張『百衲本二十四史 三國志』跋、台湾商務印書館本では巻末でページ番号なし、1937。張は「殿本考証に疑う字、一々(紹煕本)と吻合せり」「其の衆本に勝るところ、洵(まこと)に伯仲に堪える」(訳:武英殿版の校訂者がこれまでのテキストでは疑問としていたところは、全て「紹煕本」で解決できる。この本は他のテキストより格段に優れている)と称賛している。
  10. ^ 『季刊邪馬台国』18号、「第二特集 邪馬台国のテキスト」梓書房、1983。なお、本書は複数の研究者による論文集であり、安本は責任編集をしたほか論文1篇を掲載している。
  11. ^ 『百衲本二十四史 三國志』、台湾商務印書館1937の扉裏の注記による
  12. ^ 最近の例として吉村 (2010, pp. 8 f)があげられる。
  13. ^ Bentley 2008, p. 11
  14. ^ 岡本 1995, p. 89.
  15. ^ 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P65
  16. ^ 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P31






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