高代延博 経歴

高代延博

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 09:19 UTC 版)

経歴

プロ入り前

智辯学園高校では内野手兼控え投手として活躍。当時コーチに就任したばかりの高嶋仁の指導を受け、1972年春季近畿大会で優勝を飾るが、甲子園には出場できなかった。高校同期に田中昌宏、1年下に柳原隆弘がいた。

卒業後は法政大学へ進学。東京六大学野球リーグでは3年生の時からレギュラーとして出場、2回の優勝に貢献。1975年秋季リーグでは打率.500を記録し首位打者になる。1976年明治神宮野球大会でも決勝で早稲田大学を降し優勝。リーグ通算50試合出場、190打数55安打、打率.289、1本塁打、17打点。ベストナイン3回(三塁手1回、遊撃手2回)。大学同期に投手の船木千代美(熊谷組TDK)、内野手木村富士夫外野手佐々木正行池田茂(中退)、1年上には岩井隆之中西清治土屋恵三郎らの捕手陣、1年下には江川卓植松精一らいわゆる「花の74年組」がいた。

卒業後は東芝に入社、中心打者として活躍する。1977年1978年都市対抗野球大会連続出場。1978年の大会ではエース黒紙義弘を擁し、決勝で日本鋼管木田勇を打ち崩しチームの初優勝に貢献した[1]。1977年には遊撃手として社会人ベストナインに選出され、第3回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表となっている。

実家の割り箸工場が石油ショックの影響で経営難に陥り、纏まった現金の用立てを迫られたため、プロ入りを決めた[2]

プロ入り後

1978年、ドラフト1位で森繁和のクジを外した日本ハムファイターズに指名されて入団。1年目の1979年には開幕から遊撃手のレギュラーに定着し、チャンスメーカーとして活躍。規定打席(35位、打率.249)に到達し、それまで7年連続で選出されていた大橋穰を抑えて新人として初のダイヤモンドグラブ賞を受賞した[3]

1980年には打率.269(リーグ24位)と打撃面で進化を見せ、遊撃手のベストナインに選ばれた。しかし守備ではリーグ最多の25失策を記録してしまう。

1981年、選手会の副会長に就任。4月に右足首を脱臼して約40日離脱し、最終的には86試合の出場にとどまるものの同年のリーグ優勝に貢献[3]4月8日西武戦(後楽園)でのシーズン1号、6月20日阪急戦(後楽園)での2号が、ともに満塁本塁打。シーズン2本の満塁本塁打は吉田勝豊大杉勝男張本勲に次ぎチーム4人目の記録となった[3]。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでも全6試合に先発出場するが、22打数5安打1打点と真価を発揮できなかった。

1983年、選手会長に就任。満塁の場面では二番打者ながらチーム最多の14打点を記録した[3]

1984年、前半戦を故障欠場し定位置を岩井隆之に譲るが、8月にはレギュラーに復帰した。

1985年、登録名を『高代慎也(たかしろ しんや)』に変更した。自己最多となる11本塁打、58打点の一方で、球団新記録となる41犠打もマークした[3]

1987年田中幸雄が台頭し、三塁手に回るが段々と出番が減る。

1988年、5月に二軍落ちすると専らコーチ役となって引退を覚悟していたが[4]、大学先輩である山本浩二監督が就任した広島東洋カープ鍋屋道桜滝口光則らとの交換トレードで移籍[5]

1989年、登録名を高代延博に戻し5試合に先発出場するが、同年限りで現役引退

現役引退後

1990年、広島東洋カープの一軍守備・走塁コーチに就任し、三塁ベースコーチを兼任した。翌1991年途中に二軍へ配置転換されるが三村敏之二軍監督に目をかけられ、1994年に三村と共に一軍へ再度配置転換。

三村の退任した1998年オフに中日ドラゴンズへ移籍し、一軍内野守備・走塁コーチに就任した。中日監督の星野仙一は三村に再三「高代をコーチとして譲ってほしい」と打診していたが、三村は「私がいるうちは高代だけは出せない」「僕がやめたら、高代には他の球団からも来ているけど、必ず星野さんのところに送る」と拒否しており[6]、この約束を果たした格好となった。

1999年、ノックを浴びせていた福留孝介立浪和義のあまりの守備の緩慢さに大激怒し、「お前ら! PLに返すぞ!」と怒鳴り散らした。その後2001年まで務めたが、星野監督退任と共に自身もコーチを退任。

2002年、フロントの主導人事で[7]古巣・日本ハムファイターズの一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチに就任した。審判への暴力行為で出場停止となった監督の大島康徳の代わりに4月3日、4日のオリックス戦は監督代行を務め2勝0敗だった。この年大島監督の解任と共に高代もコーチを退任した。

2003年千葉ロッテマリーンズの一軍ヘッドコーチに就任。大学の先輩・山本功児が監督を務めていたことによる就任だったが、山本の解任もあり1年限りで退団。

2003年オフに横浜ベイスターズ山下大輔監督、ヤクルトスワローズ若松勉監督、さらにこの年のオフに監督就任になった中日落合博満から直接コーチの打診を受け、中日ドラゴンズの一軍野手総合チーフコーチに就任した[8]

三塁ベースコーチとしての打球への判断がよく、中日がセ・リーグのペナントを制した2006年は本塁での憤死をリーグ最小の1にとどめた。

2008年、ベンチ専従となり、2008年のオフに契約期間満了で中日ドラゴンズを退団。

2009年第2回WBC野球日本代表の内野守備・走塁コーチに就任した。三塁ベースコーチを担当し、WBC日本代表の連覇に貢献した。また、議論の的になった亀井義行の代表入りを推薦した。WBC終了後、株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約し東京中日スポーツ野球評論家、古巣・東芝で臨時コーチを務めていた。同年10月、韓国ハンファ・イーグルスの臨時インストラクターに就任した。

2010年、ハンファ・イーグルスの総合コーチに就任した[9]

2011年オリックス・バファローズの一軍ヘッドコーチに就任した[10]。同年9月16日のロッテ戦からは走者の本塁憤死が多かったことから松山秀明一軍内野守備・走塁コーチに代わり、三塁ベースコーチも務めた[11]2012年にも、引き続き三塁のベースコーチを担当。一軍のシーズン最下位が確定した9月25日付で、一軍監督の岡田彰布と共に球団から休養(事実上の解任)を告げられたことを機に退団した。

2013年第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表チームで内野守備・走塁コーチを務めた[12]。背番号は「63」[13]

2014年阪神タイガースの一軍内野守備・走塁コーチに就任。オリックス時代に続いて三塁のベースコーチを担当した[14]。一軍作戦コーチを兼務するようになった2015年以降も、三塁のベースコーチを継続。

2016年、広島のコーチ時代に指導した金本知憲が一軍監督へ就任したことに伴って、一軍ヘッドコーチに異動。実際には金本の意向で、引き続き三塁のベースコーチを務めた[15]

2018年、前年まで一軍作戦兼バッテリーコーチを務めていた矢野燿大二軍監督へ就任したことに伴って、一軍作戦兼総合コーチに異動。もっとも、一軍が2001年以来17年振りにシーズンを最下位で終えたため、金本はこの年限りで一軍監督を退任した。

2019年、矢野の一軍監督就任に伴って、二軍チーフコーチへ異動。2020年まで担当したが、契約期間の満了を機に退団した[16]

2021年からは、サンテレビのゲスト解説者、スカイ・ATigers-aiの野球解説者、デイリースポーツの野球評論家として活動。デイリースポーツでは、広島OBの内田順三北別府学と同じく、「デイリースポーツ・ウェブ評論家」という肩書を用い[17]2022年まで務めた[18]

その一方で、2021年には大阪経済大学硬式野球部の外部コーチ(週3日ほど)[19]、5月には、クラブチームを保有している関メディベースボール学院の統括野手総合コーチへ就任。アマチュア野球チームでの本格的なコーチは初めてで、社会人野球に参加している社会人チームと、学院内に併設されている中学生チームの巡回指導を担う[20]

2022年は横浜ゴム株式会社のアドバイザーなどを務めていた[21]

2022年12月16日、2023年1月1日付で大阪経済大学硬式野球部の監督に就任することが発表された[22]


  1. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ “WBC三塁コーチの舞台裏(3)あの江川と同部屋…おやじのためプロ入り”. 産経新聞 (産経新聞社). (2013年6月21日). http://www.sankei.com/west/news/130621/wst1306210082-n2.html 2018年8月11日閲覧。 
  3. ^ a b c d e “高代延博 遊撃でインベーダーを迎え撃った?“ちびっこの星”/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE. ベースボール・マガジン社. (2019年4月7日). https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190407-11 2020年7月2日閲覧。 
  4. ^ 週刊ベースボール1988年12月12日号「新天地に賭ける男たち」
  5. ^ 中国新聞社刊「カープの歩み 1949-2011」113ページ
  6. ^ 週刊ベースボール1999年選手名鑑号より。なお、高代は三村の没後「他からも話がきているなんて、ミムさんも商売上手よね。たぶん、なかったと思う。それだけ価値を上げてくれたんじゃないかと思っている」と『他の球団からも(オファーが)来てい』た点は否定している。楽天監督になるはずも…「背中が痛い、無理やわ」突然の訃報 忘れられない恩人との日々 Full-Count、2023年3月7日、2023年11月21日閲覧。
  7. ^ “追悼。ガンと戦い続けた元中日、日ハムの大島康徳氏(THE PAGE)”. THE PAGE. (2021年7月6日). https://news.line.me/detail/oa-yjnewsoriginal/uocw5dxgxgmo 2023年8月9日閲覧。 
  8. ^ 片岡篤史のYouTubeチャンネルにて高代本人が語った 落合博満の凄さと三冠王獲得の舞台裏 片岡篤史チャンネル
  9. ^ 侍ジャパン高代コーチ ハンファのコーチ就任”. Sponichi Annex (2010年1月17日). 2010年1月17日閲覧。[リンク切れ]
  10. ^ “阪神“岡田野球”は独特で評論家の解説力が試される?高代氏「緻密で奥が深い」”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2022年11月8日). https://www.daily.co.jp/tigers/2022/11/08/0015790945.shtml 2022年11月8日閲覧。 
  11. ^ “オリ三塁ベースコーチ交代 岡田監督「大きいミスが…」”. (2011年9月17日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/17/kiji/K20110917001638550.html 2013年3月9日閲覧。 
  12. ^ 侍ジャパン 監督、コーチ NPB公式サイト (2012年10月10日) 2015年4月15日閲覧
  13. ^ 侍ジャパン 監督、コーチ背番号決定のお知らせ NPB公式サイト (2012年11月13日) 2015年4月15日閲覧
  14. ^ 高代延博氏のコーチ就任について阪神球団公式サイト2013年10月21日配信
  15. ^ a b “高代ヘッドコーチ 監督意向受け来季も三塁コーチ”. デイリースポーツ. (2015年10月26日). https://www.daily.co.jp/tigers/2015/10/26/0008512460.shtml 2015年10月28日閲覧。 
  16. ^ 阪神平田2軍監督「小幡鍛え」退任高代コーチへ感謝 - プロ野球 : 日刊スポーツ
  17. ^ 阪神に走塁革命?紅白戦でベースコーチ不在に「非常にいい練習だ」と元名参謀/阪神タイガース/デイリースポーツ online
  18. ^ “高代延博氏が関西六大学野球の大経大監督として新しいスタート 「難しいが、楽しみ」”. デイリースポーツ. (2022年12月27日). https://www.daily.co.jp/baseball/2022/12/27/0015923325.shtml 2022年12月31日閲覧。 
  19. ^ “プロ球界きっての名参謀・高代延博さんが初監督に奮闘中”. 毎日新聞. (2023年2月17日). https://mainichi.jp/articles/20230215/k00/00m/050/014000c 2023年8月9日閲覧。 
  20. ^ “元阪神ヘッド高代延博氏が社会人チーム統括コーチ就任、侍コーチで連覇貢献”. 日刊スポーツ. (2021年5月26日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202105240001020.html 2021年5月26日閲覧。 
  21. ^ “元阪神ヘッド高代延博氏が社会人チーム統括コーチ就任、侍コーチで連覇貢献”. 中日スポーツ. (2022年12月16日). https://www.chunichi.co.jp/article/602223 2021年12月31日閲覧。 
  22. ^ “大阪経済大、高代延博監督就任を発表 元日本ハム09年と13年のWBC日本代表コーチ”. 日刊スポーツ. (2022年12月16日). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/amp/202212160000631.html 2022年12月19日閲覧。 
  23. ^ “「日本一の三塁コーチ」の異名はダテじゃない”. 東スポWeb. (2013年3月9日). https://web.archive.org/web/20130311075103/http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/117968/ 2013年3月9日閲覧。 
  24. ^ “「日本一の三塁コーチ」高代延博が阪神を変える”. sportiva. (2014年1月17日). https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2014/01/17/post_341/index_2.php 2018年8月11日閲覧。 
  25. ^ gooTV 『ちちんぷいぷい』2015年7月17日(金曜日)放送分「昨夜のホームイン! with Tigers」
  26. ^ 山崎武司著『さらば、プロ野球:ジャイアンの27年』、2014年、宝島社、P78-P80
  27. ^ 山本昌&山﨑武司 プロ野球 やまやま話 「キャンプ事件簿 後編」(毎週月曜配信) - YouTube
  28. ^ 【俺の胸に飛び込め!!】スルーしたろか。劇的サヨナラ弾も心が折れた山﨑さんw星野監督は泣いちゃってるし&奥様は乱闘を心配してるしの第8話 - YouTube
  29. ^ 解任長嶋コーチ落合監督に捨てゼリフ、スポーツニッポン、2006年10月29日より
  30. ^ '89スポニチプロ野球手帳、'90スポニチプロ野球手帳 スポーツニッポン新聞社
  31. ^ “WBC三塁コーチの舞台裏(5)ダルに嫌われ、金本の人生を変え、福留も…野球の財産、いつかタクトも振る”. 産経新聞 (産経新聞社). (2013年6月23日). http://www.sankei.com/west/news/130623/wst1306230071-n1.html 2018年8月11日閲覧。 






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