飛鳥寺 寺域

飛鳥寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 12:56 UTC 版)

寺域

かつての伽藍

飛鳥寺(法興寺)復元図

飛鳥寺の伽藍は、往時は塔(五重塔)を中心とし、その北に中金堂、塔の東西に東金堂・西金堂が建つ、一塔三金堂式伽藍配置という方式の伽藍の配置がされていた。これらの1塔、3金堂を回廊が囲み、回廊の南正面に中門があった。講堂は回廊外の北側にあった。四天王寺式伽藍配置では講堂の左右に回廊が取り付くのに対し、飛鳥寺では仏の空間である回廊内の聖域と、僧の研鑚や生活の場である講堂その他の建物を明確に区切っていたことが窺われる。以上を囲むように築地塀が回り、中門のすぐ南には南門、西側には西門があったことも発掘調査で判明している[39][3]

塔跡は、壇上積基壇(切石を組み立てた、格の高い基壇)、階段、周囲の石敷、地下式の心礎などが残っていたが、心礎以外の礎石は残っていなかった。心礎は地下2.7メートルに据えられ、中央の四角い孔の東壁に舎利納入孔が設けられていた。舎利容器は建久7年(1196年)の火災後に取り出されて再埋納されており、当初の舎利容器は残っていないが、発掘調査時に玉類、金環、金銀延板、挂甲、刀子などが出土した。出土品からは、この寺が古墳時代と飛鳥時代の境界に位置することが窺える[40]。心礎の加工跡より、心柱は一辺が約1.5mの角柱であったと考えられる[3]

中金堂跡は、壇上積基壇跡が残るが、基壇上の礎石は残っていなかった。『護国寺本諸寺縁起集』によれば、中金堂は「三間四面 二階 在裳階」の建物で、身舎(内陣)の柱間が正面3間、側面2間、その周囲に庇(外陣)が廻り(建物の外側から見ると正面5間、側面4間)、重層の建物であったとみられる。裳階(もこし、本来の屋根の下に設けた屋根)は当初からあったものかどうか不明である[41]

東西金堂跡の基壇は下成(かせい)基壇上に玉石を並べた上成(じょうせい)基壇を築いた二重基壇で、塔・中金堂の壇上積基壇よりは格の下がるものである。二重基壇のうち上成基壇の礎石は失われ、下成基壇には小礎石が並んでいた。この小礎石がどのように用いられたかは不明であるが、深い軒の出を支えるための小柱が並んでいたものと推定される[42]。『七大寺巡礼私記』には東金堂には百済伝来の弥勒菩薩石造、西金堂には金銅像とともに作られた繡仏を祀っていたと記されている[3]

中門は礎石の残りがよく、正面3間、奥行3間で、法隆寺中門のような重層の門であったと推定される。奥行が深い(3間)のが上代寺院の中門の特色である。南門も礎石の残りがよく、正面3間、奥行2間で、切妻造の八脚門であったと推定される[43]

1977年(昭和52年)の調査で、寺域北限の掘立柱塀と石組の溝が検出された。1982年(昭和57年)の調査では、寺域北側を区切る塀が南方に折れ曲がる地点、すなわち、寺域の北東隅が確認された。この結果、飛鳥寺の寺域は従来推定されていたより広く、南北が324メートルに達することが分かった。東西の幅については、寺域北端の塀の長さは約210メートルであるが、この塀の東端は南方へ直角に折れるのではなく、南東方向へ鈍角に折れており、寺域は南側がやや広い台形状になっている。主要伽藍はこの寺地の中央ではなく南東寄りに建てられており、寺域の東部と北部にはさまざまな附属建物が存在したと推定される[44]。寺の西側には槻木の広場に関係すると思われる石敷遺構が見つかり、これに面する西門は南門よりも規模が大きいことも分かった。また、寺内の東に飛鳥池工房遺跡が発見された[3]

現在の境内

  • 本堂 - 文政9年(1826年)再建。本堂の前には金堂の礎石が残る。
  • 庫裏
  • 庭園
  • 思惟殿 - 新西国三十三箇所第9番札所で聖観音を祀る。
  • 西門
  • 鐘楼
  • 万葉池
  • 山門
  • 飛鳥大仏標石 - 山門の前に立つ寛政4年(1792年)に建てられた「飛鳥大仏」の石碑。法興寺が創建された際の礎石が台石として使用されている。
  • 飛び地
    • 飛鳥寺研修会館「修徳坊」

注釈

  1. ^ 古代の寺院には山号はなく、山号は後世付けられたものである。なお「鳥形山」は寺の北東、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)のある山を指す。
  2. ^ 用明天皇2年(587年)の蘇我馬子による建立発願の記事では「法興寺」、推古天皇14年(606年)の丈六仏完成の記事では「元興寺」と表記され、壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)の記事中には「飛鳥寺北路」「飛鳥寺西槻」の表記がみられる。
  3. ^ 「露盤」とは塔婆の屋根上にある相輪の基礎部分を指すが、古くは相輪全体を指して露盤といった。
  4. ^ 「丈六光」は「丈六(一丈六尺)の仏像の光背」の意味。一丈六尺は約4.8メートルで、坐像の場合はその半分の法量を指す。詳細は法量参照。
  5. ^ 『元興寺縁起』本文及び「露盤銘」にも百済からの技術者派遣についての言及があるが、技術者の人数はそれぞれ異なっている。
  6. ^ 井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生 訳『日本書紀II』中央公論新社〈中公クラシックス〉、2003年。ISBN 4121600584。"この歳、百済国は、使と、僧恵総えそう令斤りょうこん惠𥦽えしょくらとを遣わし、仏の舍利を献上した。百済国は、恩率おんそつ首信すしん徳率とくそつ蓋文こうもん那率なそつ福富味身ふくふみしんらを遣わして調をたてまつり、あわせて仏の舎利と、僧聆照律師りょうしょうりっし令威りょうい恵衆えしゅ(恵総と同一人か)恵宿えしゅく(惠𥦽と同一人か)道厳どうごん令開りょうけ(令斤と同一人か)ら、それに寺工てらたくみ(寺院建築の技術者)太良未太だらみだ文賈古子もんけこし鑪盤博士ろばんのはかせ(仏塔の相輪部分の鋳造技術者)将徳しょうとく白昧淳瓦博士かわらのはかせ麻奈文奴まなもんぬ陽貴文ようきもん㥄貴文りょうきもん昔麻帝弥しゃくまたいみ画工えかき白加を献上した"。 

出典

  1. ^ a b 大脇 1989, p. 12.
  2. ^ 浅井 (1999) p.10
  3. ^ a b c d e 岩城隆利 1999, p. 13-18.
  4. ^ 吉田一彦 2003, p. 346-307.
  5. ^ 木下正史『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』(角川書店、2005)、p.19; 黒崎直『飛鳥の宮と寺』(日本史リブレット71)(山川出版社、2007)p.4、ほか諸資料
  6. ^ 大脇 1989, p. 7.
  7. ^ 大橋 (1996) p.133
  8. ^ 大橋 (1997) pp.135 - 136
  9. ^ a b 浅井 (1999) p.8
  10. ^ 大橋 (1997) pp.178 - 179, 204 - 205
  11. ^ 大脇 1989, p. 29.
  12. ^ 大脇 1989, p. 45-52.
  13. ^ 大脇 1989, p. 41.
  14. ^ 岩城隆利 1999, p. 18-19.
  15. ^ 岩城隆利 1999, p. 34-36.
  16. ^ 岩城隆利 1999, p. 36-38.
  17. ^ 岩城隆利 1999, p. 38-40.
  18. ^ 竹内亮「大寺制の成立と都城」『日本古代の寺院と社会』(塙書房、2016年) ISBN 978-4-8273-1280-5
  19. ^ a b 本郷真紹「古代寺院と学僧」、根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』(岩田書院、2015年) ISBN 978-4-87294-889-9
  20. ^ 岩城隆利 1999, p. 24-27.
  21. ^ 『日本書紀』天武天皇9年3月条
  22. ^ 大脇 1989, p. 20.
  23. ^ 岩城隆利 1999, p. 92-94.
  24. ^ 岩城隆利 1999, p. 189-192.
  25. ^ a b 岩城隆利 1999, p. 339-341.
  26. ^ 大脇 1989, p. 42-43.
  27. ^ 大脇 1989, p. 43-44.
  28. ^ 久野 (1984) pp.49 - 52
  29. ^ 久野 (1984) p.54
  30. ^ 大脇 1989, p. 44-45.
  31. ^ 「飛鳥大仏 ほぼ造立当初のままの可能性 文学学術院・大橋教授らがX線分析、従来の見解覆す研究成果」(早稲田大学サイト)]
  32. ^ (藤田ほか、2017)、pp.85, 97, 98
  33. ^ (藤田ほか、2017)、pp.63, 85
  34. ^ (藤田ほか、2017)、pp.63, 87
  35. ^ a b (藤田ほか、2017)、p.63
  36. ^ (藤田ほか、2017)、pp.63, 64, 65, 87
  37. ^ 竜山石は長いあいだ凝灰岩だと言われていたが、近年の研究で水中自破砕溶岩ハイアロクラスタイト)であると特定された。
  38. ^ 大脇 1989, p. 54-56.
  39. ^ 大脇 1989, p. 25-27,36.
  40. ^ 大脇 1989, p. 28-30.
  41. ^ 大脇 1989, p. 31-32.
  42. ^ 大脇 1989, p. 33-34.
  43. ^ 大脇 1989, p. 35-36.
  44. ^ 大脇 1989, p. 37-38.
  45. ^ 飛鳥寺塔心礎の埋納品(奈良文化財研究所サイト)
  46. ^ 清永洋平「009 飛鳥寺の塔の埋納物 飛鳥資料館のみどころ(12)」『奈文研ニュース : 奈文研ニュース』第21号、独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所、2006年6月、8-8頁、doi:10.24484/sitereports.16780-12841NAID 120005523814 
  47. ^ 『飛鳥寺と飛鳥大仏解説書』、明日香村・関西大学文学部考古学研究室、2013
  48. ^ http://npokokusaibunnkazai.web.fc2.com/04.html 諫早直人「舎利荘厳具から見た飛鳥寺と王興寺」(講座資料(特に資料3)、2017年2月17日、於大阪韓国文化院)、NPO法人国際文化財研究センターサイト
  49. ^ 飛鳥資料館第一展示室展示品目録
  50. ^ 「飛鳥寺の塔跡から真珠 仏教の七宝、創建時埋める」(産経新聞2017年7月6日)」
  51. ^ 田村朋美「005 飛鳥寺塔心礎に埋納された真珠小玉」『奈文研ニュース : 奈文研ニュース』第63号、国立文化財機構奈良文化財研究所、2016年12月、6頁、doi:10.24484/sitereports.18960-13251NAID 120005905799 
  52. ^ 京都国立博物館:学叢ホームページ版第16号(1994/3/31)森郁夫(1994), 「わが国における初期寺院の成立」『学叢』 16号 p.22
  53. ^ 奈良国立文化財研究所: 学報第5冊(1958年)『飛鳥寺発掘調査報告書』p.36
  54. ^ 納谷守幸軒丸瓦製作手法の変遷 - 飛鳥地域出土の7世紀前半代の資料を中心として - (PDF) 『明日香村文化財調査研究紀要』第4号、明日香村教育委員会、2004/12
  55. ^ 銅造釈迦如来坐像(本堂安置) - 国指定文化財等データベース(文化庁
  56. ^ 飛鳥寺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁






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