青木健作 (小説家)とは? わかりやすく解説

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青木健作 (小説家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/19 05:19 UTC 版)

青木 健作
誕生 1883年11月27日
日本 山口県都濃郡富田村(現・周南市
死没 (1964-12-16) 1964年12月16日(81歳没)
墓地 小平霊園
職業 俳人小説家
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴 東京帝国大学哲学科
活動期間 1909年 - 1962年
ジャンル 俳句、小説
デビュー作 『鼬鼠』
子供 井本農一
所属無花果句会」主宰
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青木 健作(あおき けんさく、1883年11月27日[1] - 1964年12月16日)は、日本の小説家俳人法政大学名誉教授。本名は井本 健作[2](青木家より井本家に養子)。国文学者・井本農一の父。

来歴

1883年(明治16年)11月27日、山口県都濃郡富田村(現・周南市河内町)に生まれる[1]1905年(明治38年)旧制山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学哲学科を卒業し、千葉県成田中学教諭として勤務。同僚の鈴木三重吉の影響により小説を執筆。

1910年(明治43年)「虻」を夏目漱石に賞賛され[1]、「お絹」「錆たる鍬」等を発表[1]。1915年(大正4年)旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)教諭。同年、『帝国文学』の編集を手がけ、芥川龍之介の「羅生門」を掲載する[1]

1920年(大正9年)野上豊一郎の推薦により法政大学教授に就任。1938年(昭和13年)法政大学予科長に就任(翌年法政大学第二中学校校長を兼務)。1945年(昭和20年)法政大学図書館長に就任(1952年まで)。1946年(昭和21年)俳句結社「無花果句会」を起す。1954年(昭和29年)法政大学定年退任。

著書

  • 『お絹』(春陽堂 現代文芸叢書、1913年)
  • 『若き教師の悩み 附・彼と少年、残骸』(天祐社、1919年)
  • 『デモクラシー』(学芸書院 最新学芸叢書、1919年)
  • 『青木健作短編集』(春陽堂、1928年)
  • 『新講俳諧史』(育英書院 1935年)
  • 『随筆椎の実』(子文書房、1943年)
  • 『面影 : 井本静子追悼録』(1962年)
  • 『ふるさと文芸』(青木健作顕彰の会、1994年)
  • 『青木健作自筆俳句集を読む』(井本商三、桑原伸一監修 瀬野光敏編 いづみ出版 2006年 ひかり文庫)

参考文献

  • 『日本近代文学大事典』(講談社、1984年)
  • 桑原伸一『青木健作 初期作品の世界』(笠間書院 1992年)

脚注

  1. ^ a b c d e ~ふるさと探訪~青木健作”. 公益財団法人周南市ふるさと振興財団. 2023年9月12日閲覧。
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 5頁。

関連項目

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