邪馬台国 九州説

邪馬台国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 07:42 UTC 版)

九州説

邪馬台国九州説では、福岡県糸島市を中心とした北部九州広域説、筑後平野説、福岡県の大宰府太宰府市)、大分県の宇佐神宮宇佐市)、宮崎県の西都原古墳群西都市)など、ほとんど九州の全域に渡って諸説が乱立している。その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説[要出典]と、逆に東遷して畿内を制圧した[要出典]との両説がある[注釈 18]

邪馬台国が九州にあったとする説は、以下の理由等による。

  1. 邪馬台国は伊都国の南にあると三回書かれている[要出典]
  2. 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば邪馬台国の位置は九州地方北部にかぎられること[要出典][注釈 19]
  3. 福岡県久留米市には、『魏志倭人伝』に記載される「卑弥呼の塚」と規模や副葬品、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていることなど主体部の形式がよく一致する祇園山古墳がある[18]
  4. 『魏略』には投馬国も水行陸行の記事も存在せず、また里数記事において末廬国から伊都国への行程記事が不自然であることから、水行陸行の記事が後世の加筆と見られる[要出典]
  5. 卑弥呼の墓について倭人伝は「大いに冢を作る」とあり、冢はしばしば墳丘のない墓を指す[要出典]ところ、北九州には墳丘がない環濠集合墓が多数見つかっている[要出典]
  6. 古代中国には、軍事報告書を「実際の距離を正確に10倍して記載する」「露布」という慣習があった。魏志倭人伝三国時代の史書なので、当時の一里は459m。行政機関と軍事拠点を兼ねた帯方郡の情報を元に書かれたと推定される魏志倭人伝は、露布で千里と記されていても、実際の距離はその1/10の45.9Kmであった可能性がある[要出典]この距離は九州と一致する[要出典][注釈 20]。したがって、魏志倭人伝の里の距離は、古代中国の文献に明記される露布慣習で説明できる[要出典]

逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 九州説論者の間でも邪馬台国やその他の国々の比定地に統一的な見解がなく、一言に九州説と言っても多くの異なる説の総称でしかないこと。
  2. 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であること[要出典]
  3. 畿内の古墳築造の開始時期を、3世紀にまで繰り上げるのが近年の通説であること[要出典]
  4. 3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものであり、事実中国では三角縁神獣鏡は殆ど出土していない」とする見解を表明し[要出典]その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している[要出典]
  5. 九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとする[要出典]が、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないこと[要出典]
  6. 祇園山古墳は方墳であること[要出典]

注釈

  1. ^ 又問耶馬臺耶摩堆之号若各有心哉?答師説雖有三号、其義不異。皆取称倭之音也。(釈紀第一 開題)
  2. ^ 『外国之事調書』新井白石。ただし未公刊の草稿であることから、流布した経緯は不詳。
  3. ^ 女王国という場合は、斯馬国から女王の境界が尽きる奴国までの21か国を含む[要出典]
  4. ^ ただし、郡とは景初2年(238年)の8月23日に公孫淵が殺された時期に、魏が回復した朝鮮中部の帯方郡と考えられる、『三国志魏書』の倭人伝にも帯方郡の記述しかなく韓伝にも「倭韓遂屬帶方」とあり、楽浪郡あるいは玄菟郡などの可能性はほとんどない。
  5. ^ 先に詳細が記されている奴国と同一とする説がある。
  6. ^ この場合の「大倭」とは倭人の中の大人(首長)の意とする説、邪馬台国が任命派遣した官とする説、大和朝廷のこととする説などがある[要出典]
  7. ^ 刺史は大きな行政単位である州の巡察官のこと
  8. ^ この戦乱は、原文では「倭国乱」だが、魏志倭人伝に基づいたとされる後漢書東夷伝では「倭国大乱」と「大」の字を付加して書かれている。また後代の史料になるが梁書ではこの戦乱をの[[霊帝 (漢)|]]の光和年間のこととしている。ただしこれは梁書が107年の倭国王帥升をここでいう男王に同定して机上で算出した年代にすぎず、光和年間説には史料的な根拠がないとする説(『新版・魏志倭人伝』講談社1986 山尾幸久)もある。
  9. ^ 政治を補佐していたという弟とは別人とする説と同一人物とする説とがある[要出典]
  10. ^ 卑弥呼の「鬼道」についての解釈としてはシャーマン[要出典]五斗米道道教の源流の一つ)と関係があるとする説[要出典]五斗米道ではなく「邪術」とする説[要出典]などがある。以上の諸説は、いずれの説をとるにしろ、社会学的には呪術カリスマの概念でとらえるものである。
  11. ^ 呪術カリスマと見ない説としては「鬼道」をありふれた漢語として単に祖先祭祀の意とする説[要出典]や、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという説[要出典]もある。
  12. ^ 後の推古天皇聖徳太子との関係が例として挙げられる。一方で、卑弥呼が閉じこもって祭祀のみ行い、実際の政治を男弟に委ねていたとする説に対しては、『日本書紀』の記述ではワカタケル(雄略天皇)もからの使者に面会しておらず、また稲荷山古墳出土鉄剣にも、豪族ヲワケがワカタケルを(男弟が卑弥呼に対したように)「左治」したとあることから、卑弥呼はワカタケルと同質の王であったとの反論がある(義江 2018, pp. 92, 98, 100)。
  13. ^ この景初2年6月(司馬懿が遼東の公孫淵攻撃のため出発した月)は『梁書』と『日本書紀』引用文では翌年の景初3年になっている。2年だと未だ帯方郡は公孫淵の支配下で遣使は困難であることから3年説がやや有力ではあるが確定的ではない。2年説を支持する根拠としては、魏志は倭人伝の前の東夷伝前半で、魏の毌丘倹の軍隊が沿海州から朝鮮半島の日本海側の玄菟郡故府方面に遠征していたことを語り、その記事の延長線上に倭人伝が書かれているため、朝鮮の西側の帯方郡と逆の東海岸に遣使した可能性があり、この場合、遣使困難とは言えないことや、『日本書紀』引用文では3年としながら明帝ともあって矛盾しており、3年を2年の誤記した方が、明帝を誤写で書き入れたという想定よりは容易であることなどがある。
  14. ^ 現存する版本は全て宋 (王朝)以後のものである。隋書では「邪靡堆」と国ではなく地域となっていることにも注意すべきであろう[独自研究?]
  15. ^ ただし、『三国志』には「臺獄」という表記や死体を積み上げた塚を「臺」としている例があることから、これに反対する説もある[要出典]
  16. ^ 那珂通世は神功皇后と卑弥呼を同一人物とするこの日本書紀の記述を否定する[要出典]
  17. ^ 岡田英弘の説。『後漢書』によると洛陽から大月氏まで16,370里で洛陽から帯方郡までが5,000里である。よって帯方郡から邪馬台国までは最短でも11,370里以上はないと洛陽からの距離が同等もしくはそれ以上にならないので、12,000里に設定された説[要出典]
  18. ^ 後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多い[要出典]が、隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見[要出典]もある。神武東征とは関係ないとする説[要出典]もある。
  19. ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし[要出典]山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとしている[要出典]
  20. ^ 報告書は全て軍事報告書として書かれたと推定する。実際、魏志倭人伝には、釜山から対馬対馬から壱岐壱岐から九州北岸がそれぞれ千余里と記されているが、最短渡海距離で考えれば、釜山南端から対馬北端まで約50キロメートル、対馬南端から壱岐北端まで約50キロメートル、壱岐南端から九州北岸(糸島半島の付け根)まで約50キロメートルなので、露布で「正確に10倍した千余里」にほぼ合致する[要出典]

出典

  1. ^ 『三国志』魏書東夷伝序文
  2. ^ 森博達「倭人伝の地名と人名」(『日本の古代1、倭人の登場』、中央公論社、1985)
  3. ^ Bentley 2008
  4. ^ a b Bentley 2008, p. 11
  5. ^ 訓読日本書紀. 中黒板勝美 岩波書店 p.128 (国立国会図書館)
  6. ^ 岡本健一『邪馬台国論争』(講談社選書メチエ、1995年)p89に引く岡田英弘の説
  7. ^ 若井敏明の2010年の著書『邪馬台国の滅亡』など
  8. ^ 邪馬台国論争が再び白熱 「九州説」派巻き返し - 日本経済新聞
  9. ^ 「邪馬台国はどこにあったのか」 考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は | 毎日新聞
  10. ^ 吉野ヶ里遺跡“謎エリア”の墓から赤い顔料、有力者であれば邪馬台国につながる発見の可能性も | TBS NEWS DIG (1ページ)
  11. ^ 「邪馬台国の方位について」(『オリエンタリカ』1、1948年8月)
  12. ^ 孫栄健『邪馬台国の全解決』六興出版 よってこの説では里数は5倍でなく10倍になっているとする。
  13. ^ 『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』中公新書2012 渡邉義浩
  14. ^ 『纏向:奈良県桜井市纒向遺跡の調査』(奈良県立橿原考古学研究所編1976)など
  15. ^ a b 『日本列島における国家形成の枠組み』寺澤 薫(纏向学研究センター研究紀要2013所収)など
  16. ^ 羽黒熊鷲「三角縁神獣鏡魏鏡説の否定と古墳編年大系の見直し」『古樹紀之房間』、年。
  17. ^ 奥山 2008, pp. 191–192.
  18. ^ 宝賀 2001, pp. 62–95.
  19. ^ 西谷 正『邪馬台国最新事情』p.281 石油技術協会誌 第75巻第4号
  20. ^ 大正9年『日本古代文化』
  21. ^ 和田清1956「東洋史上より観たる古代の日本」、榎一雄1960「邪馬台国」、[[坂本太郎 (歴史学者)|]]『国家の誕生』、井上光貞1960「日本の歴史1 神話から歴史へ」、など。
  22. ^ 「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」『歴史における政治と民衆』1986年、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)
  23. ^ 『阿波高天原考』(1975年)
  24. ^ 『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』(新人物往来社)






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