経済企画庁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 16:00 UTC 版)
沿革
- 1946年(昭和21年)8月12日、内閣所属部局として経済安定本部を設置。
- 1947年(昭和22年)5月3日、総理庁の設置に伴い、経済安定本部は内閣所属部局から総理庁の機関に移行。
- 1949年(昭和24年)6月1日、国家行政組織法施行に伴い、経済安定本部は総理庁の機関から府省と並ぶ機関に格上げ。これに伴い、これまで総理庁内で並列関係にあった物価庁、経済調査庁を自らの外局とする。
- 1952年(昭和27年)4月1日、物価庁を廃止。経済安定本部の内部部局(物価局)とする。
- 1952年(昭和27年)8月1日、経済安定本部を廃止し、総理府外局として経済審議庁(長官は国務大臣)が発足。なお、経済安定本部の外局だった中央経済調査庁は、行政管理庁に統合。
- 1955年(昭和30年)7月20日、経済企画庁に改称。
- 1957年(昭和32年)8月1日、国家行政組織法改正に伴い、大臣庁は省と同様の組織機構を有することができるようになり、経済企画庁次長に代えて経済企画事務次官を設置。
- 1971年(昭和46年)7月1日、環境庁発足に伴い、経済企画庁国民生活局が所掌していた水質汚濁防止行政を環境庁に移管。
- 1974年(昭和49年)6月26日、国土庁発足に伴い、経済企画庁総合開発局が所掌していた国土開発行政、水資源行政を国土庁に移管。
- 2001年(平成13年)1月6日、中央省庁再編の実施に伴い総理府本府、沖縄開発庁などと統合され内閣府が発足、経済企画庁の業務は内閣府経済財政諮問会議、内閣府政策統括官(経済財政運営担当・経済社会システム担当・経済財政分析担当)、内閣府国民生活局、経済社会総合研究所などに承継(一部は経済産業省に承継[要出典]。)
組織
特性
経済企画庁長官は通常国会において政府四演説に数えられる経済演説を行い、安全保障会議に参加し、経済企画庁の官僚が日本銀行政策委員会に出席する等重要な権限を有していたが、経済企画庁自体の権限はそれほど持たなかったため、業界団体に対して強い影響力を及ぼすことができなかったとされる。また各省庁から上がってくる資料を合冊しているだけの「ホチキス官庁」と揶揄する声もあった。筑紫哲也は小渕内閣で長官に就任した堺屋太一へのテレビインタビューで、経済企画庁ではなく経済「分析」庁ではないか、とその存在意義に疑問を呈した。
一方では、経済企画庁では日本の経済問題について積極的に研究・分析し、政策提言を行っていくという役割が課せられていた。また、「外で認められて一人前」という文化があり、個人レベルで経済問題について上司の許可なく寄稿や執筆を行うことが許されているなど、日本の官庁の中では異例なほど自由な環境にあった。これらのことが大来佐武郎・宮崎勇・金森久雄・香西泰・小峰隆夫ら「官庁エコノミスト」の輩出に寄与してきたとされる[1]。
また、戦前の企画院の流れを汲んで経済白書の編纂・発行を行っており、他省庁より比較的中立な政治姿勢で国民経済をマクロ経済・ミクロ経済の両面から分析するなど大蔵省・通商産業省等とは一線を画し、その分析成果は経済政策への影響を決して無視できない「影のエリート官庁」と言われた。経済企画庁が担ってきた中期的な経済計画の策定も社会主義国における経済計画(計画経済)とは全く異なったものではあるが、計画の策定段階で政府内部だけでなく経済界や労働組合、消費者団体、学者などを含む国民各層の合意形成に寄与してきたと考えられている。
経済企画庁の機能が内閣府に吸収されると、かつての自由な雰囲気は失われ、官庁エコノミストの輩出サイクルは止まってしまったとも言われている[1]。
歴代長官
- ^ a b 官庁エコノミストは復活するか(2022年7月21日閲覧)
- 1 経済企画庁とは
- 2 経済企画庁の概要
- 3 政務次官
- 4 経済企画庁出身の著名人(上記以外)
- 経済企画庁のページへのリンク