日本の慰安婦 戦地への移動

日本の慰安婦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 06:20 UTC 版)

戦地への移動

海軍省潜水艦本部勤務を経てペナン島の潜水艦基地司令部に勤務していた井浦祥二郎によれば、軍中央がペナン島に将兵の娯楽ために慰安所を設置することを公然と指示し、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。井浦は「わざわざ女性を戦地にまで連れてきたことをかわいそうだ」と感じ、「そのくらいならば、現地女性を慰安婦として募集した方がよかった」という旨を自著で述べている[121]

慰安所

慰安所の入口。「聖戦大勝の勇士大歓迎」「身も心も捧ぐ大和撫子のサーヴイス」と書かれている。

日本軍の軍用売春宿を「慰安所」という。

日本政府の調査によれば、日本軍の慰安所は、沖縄[122]、中国、フィリピンインドネシア、マラヤ(現:マレーシア)、タイ、ビルマ(現:ミャンマー)、ニューギニア香港マカオ及びフランス領インドシナ(当時)に設置されたことが確認されている。これらは日本軍の要請により民間業者によって運営され、その数は約400箇所であったとされる[123]

慰安所の朝鮮人管理人の日記

1943年から1944年にかけビルマ(現在のミャンマー)とシンガポールの日本軍慰安所に勤務していた朝鮮人朴の日記が、2012年5月に韓国で発見された。

日記によると、彼の毎日の仕事は、午後2時から午前1時までの間、慰安所の帳場人(受付・会計)を担当し、すべての収支の記録や慰安婦の部屋への案内をした[124][125]。慰安所は、風俗街ではなく、民間人居住地の中の既存の建物で運営されていた[126]。朴の他の仕事は、日用品の買い物、配給の受け取り・分配、車の整備、空襲の見張りなどがあった。朴は日本軍当局と常に連絡を取り合い、営業月報・収支計算書を提出したり、慰安婦と自身のために入国許可証、雇用許可証、渡航書類の取得や慰安婦の就・廃業申請をしたりしていた。慰安婦は食事や衣服住居を与えられ健康的であった。彼女らは医療的配慮の上出産し、望まぬ妊娠の場合は病院で堕胎していた。何人かは結婚し夫と一緒に暮らすことを望んでいたが、また慰安婦として戻されていた。慰安婦たちは妊娠すれば休職し、定期的に性病検査を受け、質の高い医療を受けていたという。慰安婦たちは仕事の給料を支払われ、多くの慰安婦は給料用に個人の貯金口座を持っていた[127]。彼の仕事の一つは、慰安婦たちの要求に応じて、彼女たちの収入を横浜正金銀行に預けることと、彼女たちの賃金を韓国に送金することであった[125]

慰安婦の収入

日本軍を相手とした場合は兵士が支払った料金の半分以上が女性の手取りとなり、残りが業者のものとなった[128]。 慰安婦への支払いは慰安所経営業者を通じて預金通帳へ半分、残り半分は軍票で支払われ、慰安婦への不払いが起きないよう軍主計局の監査と官憲の監視下で管理されていた[19]文玉珠のように、日本軍発行の軍票による受取金額と思われるため、実際の貨幣価値がどれほどのものであったのか、また実際に家族が引き出せたのかは不明だが、表向きの為替交換レートでは5000円になる金額を兄に送ったなどの例もある[129][130]。しかし、慰安所によっては慰安婦に給与が無い場合もあった[131]。また、文玉珠の場合も、とくに大金が貯まったのは、ビルマのマンダレーが陥落し、一挙に日本軍の軍票の価値が下落し、物が事実上買えなくなったため、軍人らがせめて文玉珠らを喜ばせるために気前良くチップとして与えるようになった頃からである[132]

兵士が支払う慰安所の利用料金については「慰安所規則」を参照

日本軍慰安婦が報酬を得ていたことを示すものとしては以下のものがある。

  • 当時の新聞『京城日報1944年7月26日の慰安婦募集広告では「月収300円以上、前借金3000円可」と記されていた[133]。吉見義明は「人身売買の業者がよく使う騙しの常とう手段」として、ほとんどが文盲であった朝鮮女性が、総督府の御用新聞であった『京城日報』を読んで応募するとは考えられないので、「主として他の業者への呼びかけだったのではないか」と主張している[134]
  • 日本人戦争捕虜尋問レポート No.49によれば、北ビルマのミートキーナの慰安所の慰安婦たちは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を前借金の返済にあてた。同報告によれば稼ぎは月に1000 - 2000円、年季は半年から一年で一部は帰還した者もおり、慰安婦には一カ月毎に麦粉2袋、その家族には月毎に雑穀30キロが配給され、慰安婦の衣食住、医薬品、化粧品は軍が無料配給され、兵士の月給は15円 - 25円であったことが記されている[135][136]。しかし、この日本人戦争捕虜尋問レポート No.49には、業者が食料、その他の物品の代金を慰安婦に要求したので、「彼女たちは生活困難に陥った」とも書かれており、さらにビルマでは1943年頃から酷いインフレになり小林英夫早大教授によると1945年のビルマの物価は東京の1000倍以上になっており[137] ゆえにこれは戦時中の国外での極端なインフレを考慮しない暴論であると吉見は指摘している[138]
  • 大韓民国大法院は1964年当時に慰安婦として働いていた女性が月5,000大韓民国ウォンの収入を得ていたことを判決文に明記している[80]
  • 中国漢口の約三十三万人と全兵士の金銭出納帳を調べたら、三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だったといい、ある内地人(日本人)の慰安婦は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」と語っていたという。慰安所の料金は女性の出身地によって上中下にランク分けされており、兵士の方は、階級が上であるほど、利用できる時間は長くなり、料金は割高になっていたという[58]。他方、元日本兵杉本康一によると「確かに兵士たちは、高い賃金を払っていたが」ある日出会った少女の慰安婦が「一銭ももらっていません」と聞いているという[139]
  • 吉原で10年間、娼婦をしていた高安やえは、内地(日本)で商売を始めるために、10倍稼げるという理由でラバウルで慰安婦となったといい「一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している[140]
  • スマラン事件(白馬事件)のBC級裁判の判決文が引用した証人・被害者に対する警察の尋問調書によれば、何人かの女性は報酬を断ったが、受け取った女性はそのお金で自由な時間を得ることができたことを報告している。「将校倶楽部」では、一晩に一人の男性の相手にし、男性が料金として支払った4ギルダーのうち、1ギルダー1セントを受け取り、そのお金で食べ物や衛生用品を購入したとされ、「慰安所日の丸」では、一時間1ギルダー50セントの料金のうち、45セントを受け取ったと慰安婦自身が証言している[141]
  • 宋神道は借金が無かったが朝鮮からの旅費、飲食代などの経費を全て借金として背負わされたという。宋の取り分は4割だったが国防献金など様々な名目で経費が加算され、返すまでに7年近くかかったと証言している[142]
  • 『証言ー強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』によると、慰安の代価を得たのは、19人の内3人に過ぎなかった[143]
  • ビルマで慰安婦だった文玉珠によると、チップが貯まり母親へ何軒も家が建つほどの金額を送金したと述べている(ただし、彼女はこれが実際には軍票による現地ルピーで、その場合、必ずしもそのまま故郷で引出し現金化できるものではなかったことを理解していない[132]。)。また、「週に一度か二度、許可をもらって外出することができた。人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった」「ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビー翡翠が安かった。(中略)わたしも一つぐらいもっていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った」という現地の生活状況を証言している[144]。(なお、この宝石の話はよく知られる太平洋戦争中のビルマのハイパーインフレの本格化前のことと思われる。当時、実際にビルマで宝石の原石が安く、敗戦後持出しが制限されたため、多くが持出に失敗したものの、日本兵の間でも同様な話が聞かれる[145]。)
  • からゆきさんの場合[146]、北川サキは10歳で売られ、女衒は前借り300円、渡航費用と食事代と利息で2,000円と称したという[146]。大正中期から昭和前期のボルネオでは、一人2円のうち娼婦の取り分は1/2、その内で借金返済分が1/4、残り1/4から着物・衣装などの雑費10円を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、それでも毎月百円ぐらいずつは返せた」 といい、それは最少で月110人に相当する(フィリピン政府衛生局での検査の場合、週一回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の2倍が娼婦負担にさせられていた)。料金は泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった(接待時間ではなく、性交労働時間だったと考えられている)。日本軍を相手とした場合は兵士が支払った料金の半分以上が女性の手取りとなり、残りが業者のものとなった

慰安婦の貯金

  • 元慰安婦の文玉珠は、1992年に日本を訪れ、慰安婦時代の1942年から1944年まで2年半の間にビルマで貯めた郵便貯金の払い戻し請求訴訟「軍事郵便貯金訴訟」を行った[147]。文玉珠は6 - 7千円の残高があるはずだと主張し、その後郵便局の調査で1943年6月から1945年9月までの12回の貯金の記録があり、残高が2万6145円であることが判明した[148][149]。当時は5000円で東京で一軒家が購入でき、また千円で故郷の大邱に家が一軒買えたといわれ[150]、この貯金だと東京で家5軒が購入できるほどのものだった[148]。1942年当時の賄い婦の給与は1ヶ月あたり約11円ほどであり、慰安婦の報酬や貯金総額は平均よりもはるかに高額であった[151]ともされる。また文は5,000円を朝鮮の実家に送っており[57][149][152]、現在では1億円ほどの価値となる(秦郁彦の計算[152])。ただし、この金銭なるものは、日本兵らが「円」と通称していたものの、実際には日本軍発行の軍票による現地「ルピー」であったと思われる[130]。これら軍票の扱いは地域や時期により扱いが異なっていた可能性があるものの、軍票増発によるインフレの流入を阻止するため、通常は故郷に送金しても本人でなければ引き出せない、地元通貨への交換に制限がある、一定額以上は引き出せない等といった制限が課されていた[130]。そのため、そのまま日本の敗戦で価値がほぼ完全になくなり、やがて日本の支払義務もそれに代わる補償措置も免除され、文玉珠自身も引き出せなくなったものである。また、現地ミャンマーにおいてもマンダレーの陥落により一挙に日本軍の軍票の価値が急落し、そのため軍人らが紙屑同然となった軍票をせめて文玉珠を喜ばせるためチップとして与えたものとみられる[153][132]上野千鶴子は、文玉珠の貯金は性交労働の代償でなく、軍人からのお駄賃をため込んだものであり、この訴訟は「名目的な額にしかならない」金銭を要求したものではなく、「道理を求める象徴的な裁判であり、支援者たちにとってもそうであった」と主張している[147]。訴状の請求趣旨に郵便貯金の返還要求は記載されていない[154]。軍事貯金払い戻し請求訴訟は日韓基本条約に付随する日韓請求権並びに経済協力協定で解決済みとして敗訴した[147]
  • 李榮薫は、中国漢口の日本人女性130名と朝鮮人女性150名が在籍していた慰安所では、慶子という名前の朝鮮人慰安婦がおり、すでに3万円を貯めたが5万円になったら京城(ソウル)で小料理屋をもつことを夢見ているとの彼女の話が司令官に伝わり「なんとたいしたオナゴであるか」として表彰されたとしている[57]
  • 戦時中に木更津から朝鮮までの送金を慰安婦に頼まれたラバウル海軍爆撃隊兵士は、200円を送金したが「山梨県の田舎なら小さな家が一軒建てられる」と思ったと証言している[152]

当時の物価

当時の陸軍大将俸給は年に約6600円、二等兵の給料は年間72円であった[58]。1943年7月時点では二等兵の月給は7円50銭、軍曹が23 - 30円で、戦地手当を含めてもそれらの倍額で、慰安婦の収入の10分の1または100分の1であった[155]中将の年俸は5800円程度であった[156]。当時の貨幣価値を企業物価指数で計算すると1931年時点での100円は現在に換算すると88万8903円、1939年では45万3547円、1942年では34万7751円となり[157]、3万円の貯金とは現在での約1億3606万円となる[158]。なお平安北道出身の朴一石(パク・イルソク)が経営していた慰安所「カフェ・アジア」は1937年で資本金2000円で開業し、1940年には資本金6万円となっていた[159]

日本の大正中期から昭和第二次世界大戦前までの物価はほぼ同じレベルにあり、のちに慰安婦が増えた時期と同水準だったといわれる[160]。米価は上下変動があり第二次上海事変から特に欧州戦争が始まってから大きく上昇が始まる。

慰安婦に対する給与の支払いは、多くは軍票という政府紙幣の一種によってなされていた。戦地において軍票が大量発行されたため、軍票の価値が暴落した。例えばミャンマーのラングーンでは、日銀のまとめた資料によれば軍票の公定額面でいえば1941年12月から1945年8月までに2千倍近いハイパーインフレを起こしている[161]。そのため、チップ等も含め慰安婦が受け取る軍票の額面は形の上では膨れあがったケースがあった。吉見義明は「慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の俸給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。」と推定している[162]。また、戦後この軍票に対する日本政府の支払義務が免除されたため、軍票が紙くず同然となり[156]、払戻しを受けられなくなったケースもあった。

仲介業者による中間搾取や不払い

  • 吉見義明尹明淑によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんどは、慰安婦の直接の雇用主である業者が、慰安婦から「前借金」「衣装代」「住居費」「食料代」及びそれらの利息等の名目で給与を天引きしており、慰安婦の手元に渡された給料はほんのわずかというケースが少なくなかった[163]。 日本内地の遊郭等の女性においてもいくら働いても利子が嵩んで前借金がいっこうに減らない、ときには雪ダルマ式に増えるといった話はよく聞かれる[164]
  • 李榮薫はこうした業者は女衒であったとしている[57]秦郁彦も業者が慰安婦に支払わなかったことや楼主の不払いについて指摘している[156]

  1. ^ 1945年まで、朝鮮や台湾の住民は日本国籍者だった。
  2. ^ 芸娼妓解放令1872年)や、朝鮮での「娼妓類似営業の取締」(1881年[51])、娼妓取締規則1900年)等では「芸娼妓・娼妓」と呼んだ。
  3. ^ 「慰安」とは、一般に「心をなぐさめ、労をねぎらうこと。また、そのような事柄」「日頃の労をねぎらって楽しませること」を意味する[52][53][54]
  4. ^ 林博史は募集広告を出したのが何者かについては、触れていない[101]:106。前述の朝鮮半島の広告は、業者が出したものである[102]
  5. ^ 強制連行#事典類の採録状況と解説」参照。主に朝鮮人に対する労務動員に関して用いられる[115]:61





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