日本の慰安婦 慰安婦の生活状況

日本の慰安婦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 06:20 UTC 版)

慰安婦の生活状況

休日と外出制限

1932年までの(くるわ)内の公娼(集娼制)では遊女は外出はできない状況にあったが[165]、慰安婦の外出制限も、地域によって違いはあるが同様に厳しいものであった。

慰安婦の休日は無しか、月1回[166]、一日の就業時間と休日が厳守された[19]。朝鮮人慰安婦の証言[誰?]によると生理の時も休むことは許されていない[166]。軍の慰安所では、軍医の検診があり、性病と診断されると働くことができなかった。そのため、淋病を誤魔化すために、経営者が検査前に少しでも膿を絞り出しておくといった手段をとっておくことがあった。一方では、性病に限らず、病気で働けなくなると、お詫び奉公として休んだ数倍もの日数を経営者のためにただ働きしなければならない慣習が押し付けられていた地域があったことも知られている[167]。日本軍が住民に嫌われていたと言われる中国・フィリピンなどでは、開業前や休日でも出歩ける範囲に制限があったり[168]、監視警備区域内に住まわせられていた。現在の中国湖北省 武漢市にあった漢口特殊慰安所は日華混在地区にあり、慰安所の前に歩哨憲兵がいたという[169]

慰安婦の多くは地元から遠く戦地へと派遣されていた場合が多く、そのような場合は、事実上慰安所から逃亡することはほぼ不可能であった。許可制により外出が認められていた場合はあるが、多くの場合軍機密の保持や安全上の必要などから制限を課されていた。(文玉珠は主計将校と偽の結婚の約束をして、結婚前の準備のため家に帰るとして中国の慰安所から朝鮮の家までの通行許可証を得ることで慰安所を脱走したという[170]

ビルマ中部のマンダレーでは、経営者の証印がある「他出証」を携行すれば休日の外出は可能で、インドネシアセレベス島の場合は、全て原住民系慰安婦で休養のための外出が自由だった[19]。国内と違って占領地の軍隊専属であったため、部隊移動にともなう繁忙・閑散期の差は大きかった[171]

ビルマに出征した古山高麗雄は、慰安婦の中には金銭に余裕のある者もおり、買い物が出来たので、兵士が煮干しを食べている時でも卵や鶏肉を現地で購入して食べていた。束縛はあったが兵士より自由だったのではないかと当時を振り返っている[172]

歴史家の吉見義明は、自らだけの意思で慰安婦を辞めることは事実上不可能であり、辞めることを許されたのは、妊娠後期になったり、精神的疾病を発症して、慰安婦としての任務を遂行できなくなった場合に限られていたのがほとんどであったとしている[162]

仕事の状況

以下は、地域や慰安所の経営者、そのときどきの環境によって、当然異なっている可能性があることに注意しなければならない。日本兵の休日の慰安が他にないこと、相対的に慰安婦の数が少ないことなどから、1人の慰安婦に少ない時で一日10人程度、多い時は数十人の兵士が詰めかけた[173]。元慰安婦らの証言によれば、そのような場合でも慰安婦に拒否する自由はほとんど与えられておらず、体調にかかわらず兵士の相手をしなければならなかった[174]

港に船が入ったときは娼館は満員となり、慰安婦は一晩に30人の客を取った時もあった。現地人を客にすることは一般に好まれず、ある程度接客拒否ができたようである。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、休みたくても休みはなかったという。

主として軍が作成した慰安所規程において、慰安婦との性行為の際には避妊具(当時は「サック」と呼ばれた)の使用が義務づけられていたが[175]、守ろうとしない兵もいて元慰安婦の中には、慰安所での性行為によって妊娠した人もいるとしている。

元慰安婦の李英淑は「私は軍人を相手にすると何度も性器がパンパンに腫れ上がりました。そうなったら病院に行くのですが下腹が張り裂けんばかりに痛みました。(中略)私は何度も性器が腫れて1年に3、4回は入院しました」[要出典]と回想している[166][176]。 元慰安婦の金徳鎮は毎日の性交の回数が数十回に及んだ結果、「女達の中には性器がひどく腫れあがって出血していた人もいました」と証言している[176][177]

近衛師団通信隊員総山孝雄によれば、シンガポール陥落の時、ここを支配していたイギリス兵相手だった地元の売春婦たちが自発的に慰安婦に志願したが、次々に何人も相手にするという、彼女らが予想もしていなかった過酷な状況で、ある女性が4、5人目で体が続かないと前を押さえてしゃがみこんでしまったため、係りの兵が打ち切りを宣言したところ、列を成して待っていた兵士達が怒って騒然となり、係りの兵は撲り殺されそうな情勢となり、怯えた係りの兵は、女性を寝台に縛り付けてそのまま兵士の相手をすることを強要したことがあったという(ちょうど番が来て中に入った兵士が、これを見て驚いて逃げ帰り、かわいそうだったと語ったという)[178]

山田盟子は、沖縄で兵士らが行列し、1人当たりの時間が通常数十秒程度で済ましていたこと、5分もかかっているとその兵士を古参兵が首根っこをつかんで引きずり出していたことを報告している[179]。水木しげるは、ラバウルでの回想で彼自身も並んでみたことがあるものの、あまりの長蛇の列で自分にまで順番が回ってきそうにないので、ついに諦めたことを書いている。それでも後ろの者は、水木が諦めたように他にも諦める人間が出てきてギリギリにでも自分に順番が廻ってくることを期待して並んでいるのである。ある慰安所で列に並んでいた兵士が終わり切れずにまだいる中、終業時刻が来たため、慰安婦らがそれを詫びて、かわりに童心を呼び起こすような歌をうたって帰ってもらったとのエピソードが、慰安所の牧歌的な雰囲気を示すものであるかのように紹介されることがあるが、前述のように兵士らが怒って騒ぎ出し暴動にもつながりかねないため、それを避けるための慰安所のノウハウであった可能性に注意する必要がある。

歴史学者の吉見義明は、吉見義明は、慰安婦の状況を「1日数10人などの肉体的に過酷な条件のため、陰部が腫れ上がり、針も通らないようになった」事がたびたび(年数回)あったとしている[162]。また、慰安婦は就業詐欺など違法行為による強制的な徴集、より厳しい行動の制限、多く見られる兵士による暴力など、むき出しの奴隷的制度であったとしている[180]

歴史学者の秦郁彦は、慰安婦は公娼より報酬の条件がいい[181] 一方で、戦地であることや酔った兵の横暴にさらされやすかったなどの危険が、内地の低級娼婦よりも多かったと見ている。

兵士との関係

  • 元兵士の伊藤桂一は、慰安婦らは「ときには性具のように取扱われはしても、そこにはやはり連帯感のつながりがあった。だから、売りものに買いもの、という関係だけではない、戦場でなければ到底持ち得ない、感動のみなぎる劇的な交渉も、しばしば持ち得たのである」と述べ、当時の兵士と慰安婦たちの人間的な交流があったエピソードを紹介している[182]
  • 当時の民族差別感情から、慰安婦の中でも朝鮮人慰安婦に対してしばしば酷な扱いがなされた可能性がある。ビルマでの朝鮮人慰安婦について、ある町の慰安婦について、彼女ら自身が兵士とともに自決することを申し出たと主張する話がある一方で、実際にはこれは、慰安婦としての仕事に加えてさんざん看護婦代わりや水運び等にも利用した挙句に兵士らの自決に先立って殺害されたのだというのが真実だとする話を伝える生存兵士もいる[183]。また、中国との南方最前線で玉砕を前にした日本兵による慰安婦の集団殺害を、国民党軍が目撃し、辛くも逃げることに成功した慰安所の女経営者を保護し、従軍していた中国人ジャーナリストが彼女の語る内容を報道している[184]
  • 歴史学者の吉見義明は、兵士から見れば慰安婦は血なまぐさい戦場で、身近の唯一の女性であり、恋愛を含めた心の交流があったと話す場合が多いが、元慰安婦の証言からはそうした状況はまったく違って述べられているという。慰安婦側から見れば、愛想良く対応しないと殴られる、兵士の求めるような形で応対する事で少しでも楽に「仕事」を済ましたい、将校と仲良くなることで少しでも待遇をよくしてもらいたい、という動機であるとしている[185]
  • 1944年米国戦争情報局心理作戦班報告によればビルマミッチーナーの慰安所では、日本の軍人からの求婚もあり、実際に結婚したもケースも報告されている[186]。このほか、酒に酔った兵に脅された例、逆に刀を刺してしまった例、無理心中させられそうになった例、慰安婦に頼まれて自由にする金を横領した主計将校など様々な逸話がある[要ページ番号][15]

その他

  • 1938年から終戦まで中国北部で兵士として服務し、戦後作家になった伊藤桂一は、慰安婦達の相談係のような役目もしたといい、自身が見た慰安婦については「借金を返済し、結婚資金を貯え、結婚の際の家具衣装箱も充分用意していた。」として生活は「かなり恵まれていた」と述べている[182]
  • 日本軍慰安婦の契約期間は前金の額に応じて契約期間は6ヵ月から1年間であった[186]。韓国の経済史学者李榮薫は、契約期間は通常2年間であったとし、ただし船便が途絶える場合などもあり、相当数の慰安婦は2年間というわけには行かなかったと述べている[57]
  • 熊本県の活動家田中信幸は、日本陸軍第6師団の分隊長であった父親が、慰安所に行くことを「楽しい外出」、日本人・朝鮮人・中国人女性を慰安婦として扱うことを「日本、中国、朝鮮を征伐する」と日記に記していたことを、韓国挺身隊問題対策協議会に報告した[187]
  • 第53師団の第53野砲兵連隊の連隊長である高見量太郎はビルマ戦線で戦死したが、その際、中国軍によって彼のつけていた日記が発見されている。その中に、最初にシンガポールに赴任した際、イギリス商人から接収され、その時点では日本人によって経営されていたホテルにイギリス人少女が軟禁されていて、浴室での流し役として使われ実際には慰安婦の仕事をさせられていたことが記述されている[188]

吉見義明によると、地域の状況を問わず、軍の進出に伴い、兵士が存在する地域には慰安所が設置されていったため、慰安婦が前線基地に派遣される場合も多く、そのため、慰安婦が空襲や爆撃の被害を受けたこともあった[162][185]

ビルマのミッチーナーでの慰安婦の状況(米軍報告書による)

ビルマのミッチーナでアメリカ軍に捕らえられ尋問を受ける慰安婦。
(1944年8月14日)

1944年9月にインドのレドで作成された日本人戦争捕虜尋問レポート No.49では、ビルマの戦いミッチーナー陥落後の掃討作戦において捕獲された慰安所経営者の日本人夫婦及び朝鮮人慰安婦20名に対する尋問内容が記録されている。この報告では「慰安婦」とは日本軍に特有の用語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦は内容の正確な説明がなされないままに勧誘されたこと、署名による契約で前借金数百円が与えられたこと(ただし、この前借金には現地に行くまでの旅費だけでなく、到着まで場合によっては数段階にわたって仲介業者が入っており、これらの業者への仲介料も女性への前借金ということにされているのが典型的な手口であったが、米軍や慰安婦自身がそのことをどこまで理解していたかは不明である)、応募した女性には娼婦もいたことや、ミッチーナでの生活環境は買い物や外出などが可能で、比較的良好であり、将兵と共にスポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等、蓄音機も楽しんだこと。慰安婦らは個室を与えられ、接客を断る自由もあり、軍人が泥酔していた時には断ることもしばしばあったこと。避妊用具が支給され、軍医による週1回検診などで彼女らの健康状態は良く、日本軍人と結婚した者もいたこと、慰安所経営者は借金額に応じて彼女らの総収入の40 - 60%を受け取っていたこと。彼女らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済していたこと、(但し後の米軍ATISの調査報告書No.120 1945/11/15 では慰安婦の売り上げ(gross)は最高1500円、最低300円/月で慰安婦は経営者に最低150円/月は支払わなければならなかったとの証言記録がある)(当時の日本兵の月給は二等兵で6円、少尉で70円、大将で550円[189])。彼女達は十分なお金を持ち、衣服、化粧品、タバコといった嗜好品を購入できたこと。一方で、経営者は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を厳しいものにしたといったこと。日本軍が借金を返済した慰安婦は帰国することができるようにせよとの命令書を発行したために一部の慰安婦は帰国を許されたことが記録されている。[要出典]

ただし、これらは、かなりの部分が経営者側に対する取材により、その言をそのまま採録した部分も大きく、とくに経営者側に有利な調査内容の部分についてはどこまで信用できるか疑問があるともされる。[要出典]

また、慰安婦が軍票で得た金額を当時の日本円と同等に評価して、現在の貨幣価値でいえば億近い金額を稼いだ慰安婦もいたとの論説もしばしば見られるが、実際には当時ビルマでは日本からは物資の供給能力がろくにないまま、日本側の必要物資を軍票で徴発したため、1945年春段階で物価が戦前の127倍、戦争末期には1856倍(ラングーンのケース)[190]になっていた。そのため、日本兵が貨幣として持つ軍票では事実上ものが殆ど買えなくなり、士官らがそれでも慰安婦を多少なりとも喜ばせるためチップをはずんだため、このような額になったとされる[153]。 慰安婦は故郷に送金することは可能であったが、京大の東アジア研究センターの研究によれば、地域や時期によって扱いは異なると考えられるものの、インフレの影響を遮断するため、原則として母国への送金や引出しは極めて制限されていた。ある例では、まず現地通貨での強制預金の必要があり、母国送金できるのはその1/69、引出・利用は本人が母国に戻ってきてから本人のみが出来ることに限られていたことが報告されている[130]。また例えば、現地除隊となった日本軍将兵の場合においても1日30円、1か月100円以内に引出額が制限される陸軍の通知が開戦後1年と経たない1942年9月に出されている[191]


  1. ^ 1945年まで、朝鮮や台湾の住民は日本国籍者だった。
  2. ^ 芸娼妓解放令1872年)や、朝鮮での「娼妓類似営業の取締」(1881年[51])、娼妓取締規則1900年)等では「芸娼妓・娼妓」と呼んだ。
  3. ^ 「慰安」とは、一般に「心をなぐさめ、労をねぎらうこと。また、そのような事柄」「日頃の労をねぎらって楽しませること」を意味する[52][53][54]
  4. ^ 林博史は募集広告を出したのが何者かについては、触れていない[101]:106。前述の朝鮮半島の広告は、業者が出したものである[102]
  5. ^ 強制連行#事典類の採録状況と解説」参照。主に朝鮮人に対する労務動員に関して用いられる[115]:61





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本の慰安婦」の関連用語

日本の慰安婦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本の慰安婦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日本の慰安婦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS