房相一和 房相一和

房相一和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/15 14:14 UTC 版)

房相一和

背景

ところが、永禄12年(1569年)になって北条氏政と上杉謙信の間で越相同盟が締結されると、里見氏は上杉氏の支援を失い苦境に立たされることになる。対抗策であった武田信玄との甲房同盟も実質的には大きな影響力はなかった。続いて、天正2年(1574年)6月には40年にわたって里見氏を率いていた里見義堯が死去、閏11月には関東の反北条勢力にとっては象徴的な存在となっていた下総関宿城が北条氏により陥落した(関宿合戦)。関宿合戦後に武田勝頼が甲房同盟を名目に仲裁に乗り出し、里見・北条・佐竹の三氏間の停戦が実現するが、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで武田氏が大敗し、武田勝頼も対織田氏徳川氏戦に専念せざるを得なくなったために関東地方における武田氏の発言力が大幅に低下し、甲房同盟およびこれに裏付けられた停戦は崩壊した。更に天正4年(1576年)5月には上杉謙信も織田信長によって京都を追放された将軍足利義昭の要請を受けて、毛利氏本願寺と連携して織田氏との対決に動き始めて関東地方に対する上杉氏の関与が大幅に低下することになる[2]

こうした状況の中で、北条氏政は里見氏に対して攻勢をかけ、酒井氏・土岐氏を傘下に置くと、更に南下して上総安房国境まで迫る勢いをみせた。そうした中で両者の間で和議の動きが現れるようになり、北条氏側の松田憲秀と里見氏側の正木頼忠(左近大夫)[3]間で交渉が行われ(『関八州古戦録』)、天正5年(1577年)7月頃に両者の間で和約が成立した。また、この頃北条氏についていた上総の鋳物師である野中氏が仲裁に関与したとする伝承もある。

内容

まず、里見氏と北条氏の間で国分(領土協定)が締結された。その範囲は当時の関東地方の慣例に倣ってではなく単位で定められたとみられるが、具体的な内容は判明していない。ただ、その後の命令文書の適用範囲から小櫃川一宮川が境界とされたことは確実であり、両河川が流れていない上総中央部では真里谷・高滝は里見氏、池和田は北条氏の勢力圏とされたと考えられている[4]。また、里見氏の金谷城や北条氏の浦賀城など最前線の拠点とされていた城のいくつかが廃された。更に北条氏政の娘(龍寿院)が義弘の弟とも庶長子ともされる里見義頼に嫁ぐことによって両氏は同盟関係に入ることになった。

影響

この和約は里見氏の劣勢という状況下で結ばれ、下総及び北上総の勢力圏喪失を意味するものであった。このため、里見義弘に「遺恨深重」[5] と嘆かせる程であった。更に氏政の娘と義頼の婚姻は一見すると、北条氏の娘を人質に取った形式にはなっていたものの、実はこの当時義弘没後の家督や所領を巡って、義弘・義頼の関係は冷え切っていたとも言われており、そこに北条氏の介入の可能性を生むことになった(勿論、この関係悪化が里見氏を和約に向かわせた背景の1つにあった可能性がある)。

一方、里見氏の本国である安房を目前として北条氏が和約に応じた背景としては、その地理的条件の問題があったとされる。天正期に作成された関東諸大名の動員兵力に関する資料(「関東八州諸城覚書」)によれば、北条氏の動員可能兵力が2万6千騎弱であったのに対して、里見氏のそれは3千騎に過ぎなかった。だが、北条氏は北に上杉氏、北東に佐竹氏・結城氏などの敵対勢力を抱えており、その勢力の全てを里見氏に向ける事は不可能であったし、その中にも実際には和約成立当時には完全に従属していたとは言えない千葉氏(宗家は3千騎、他に原氏・高城氏などを含めて7千200騎)など北条氏非直轄の兵力を多数含んでいた。そうした中で北条氏も里見氏を直ちに攻め滅ぼせる状況下にはなく、佐竹氏などとの戦いに専念するという意味においても和約は歓迎される状況にあったと考えられている。

また、交通的条件を指摘する研究もある。今の東京湾とその周辺海域は冬から春先にかけては強風や波浪によって通常の海上交通でも支障を来し、この時期の房総への出兵は兵員や兵站の輸送が困難であった(実際に旧暦の12月及び翌年1月に北条水軍が里見氏を攻撃するために房総に向かった事例はない)[6][7]。一方の武蔵・下総国境地帯の隅田川太日川下流域は夏から秋にかけては水量が多くて時には洪水の発生によって渡河が困難となり、陸上交通に支障を来していた。つまり、北条氏が里見氏に対して一時的に優位が保てても、輸送の問題から年をまたぐような長期戦の展開が困難であったことも北条氏が里見氏を攻め滅ぼすことを困難にしていたと考えられ、和約を促す要因になったと考えられている[7]

そして、長年の戦争に苦しめられてきた房総の人々にとってはこの和約は歓迎されるものであった。里見氏の顧問的な存在であった妙本寺の日我は天正8年(1580年)11月に著した手紙の中でここ数年戦争と飢饉によって万人が苦しんでいたが、東京湾の「向地」が「味方」になったことで平和になったと高く評価している。また、湾内の村々では、里見氏と北条氏の間で半手が行われ、時にはそれが認められずに両氏から二重の賦課を受ける場合もあったが、国分によってそれが解消された。更にこの地域で出されていた軍勢による濫妨狼藉を禁じる禁制・制札もほとんど見られなくなっている。これらの事実は見えない海の「向地」からの脅威が取り除かれたことの影響の大きさを物語っている現象と言える。また、この平和が東京湾を通じた物資の流通(房総方面への米や織物などの生活必需品、相模・武蔵方面への材木や炭薪、鍋釜などの鋳物類など)が盛んになり、後の「船改め」の際に里見氏・北条氏を悩ませることになる。


  1. ^ 滝川恒昭「北条氏の房総侵攻と三船山合戦」(千葉城郭研究会 編『城郭と中世の東国』(高志書院、2005年)ISBN 978-4-86215-006-6
  2. ^ 細田大樹「越相同盟崩壊後の房総里見氏-対甲斐武田氏「外交」の検討を通じて-」(佐藤博信 編『中世東国の政治と経済 中世東国論:6』(岩田書院、2016年) ISBN 978-4-86602-980-1
  3. ^ 頼忠は父である正木時忠が一時北条氏に寝返った際に人質として小田原に送られたことがあり、妻は北条氏隆あるいは北条氏尭の娘であった。
  4. ^ 真里谷は現在の千葉県木更津市、高滝・池和田は同市原市にある。
  5. ^ 『千葉県の歴史』資料編 中世4(県外文書)P479「太田道誉資正書状写」(天正5年12月28日付)
  6. ^ 滝川恒昭「中世東国海上交通の限界・制約とその対策」(浅野晴樹・齋藤慎一 編『中世東国の世界 2南関東』(高志書店、2008年) ISBN 978-4-90664-182-6
  7. ^ a b 細田大樹「北条氏康の房総侵攻とその制約」黒田基樹編 『北条氏康とその時代』 戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月。ISBN 978-4-86403-391-6 P332-337.


「房相一和」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「房相一和」の関連用語

房相一和のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



房相一和のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの房相一和 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS