房相一和 その後

房相一和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/15 14:14 UTC 版)

その後

房相一和成立後に起きた大きな事件として、天正6年(1578年)5月に発生した里見義弘の急死が挙げられる。義弘の没後、義頼と義弘の嫡男梅王丸との間で家督を巡る内乱が勃発したが、北条氏はこの争いに介入することは無く、氏政の娘婿である義頼が勝利するまで中立を保った。なお、氏政の娘で義頼の室であった龍寿院がこの戦いの最中の天正7年3月21日に没している。続いて、里見氏の重臣であった正木憲時が反乱を起こしている。この反乱の原因については、房相一和への不満説、梅王丸擁立派であったとする説、最初から自立を図っていたとする説などがある(勿論、単独原因とも限らない)が、里見氏の新当主になった義頼は龍寿院の死によって北条氏が再び里見氏との敵対行動を開始して憲時を唆したことを疑ったようである。義頼は松田憲秀に書状を送ってこの争いは里見氏の内紛であり、北条氏の関与は不要であることを伝える一方で、佐竹義重とも連絡を取って万が一北条氏が介入してきた場合の助力を求めている。その結果、北条氏はこの戦いの間も中立を保ち、憲時の滅亡とともに里見氏の領国支配は再び安定を回復させたのである。

ここで注目されるのは、従来(大野太平「房総里見氏の研究」)から言われてきた龍寿院の没後(婚姻関係の終焉)をもって同盟関係が直ちに崩壊した訳ではなく、北条氏が最後まで里見氏の内紛に対して中立を貫いたことである。そして、時代が下り小田原征伐によって北条氏が豊臣政権によって没落させられるまで、里見氏と北条氏の間に直接的な戦いが発生せず、房相一和で設定された勢力圏が維持されたことである。すなわち、房相一和は不安定な状況ではあったものの、曲がりなりにも小田原征伐までの13年間にわたって維持されたと考えられている。

勿論、両氏の間に全く戦いが無かった訳ではない。例えば、国分によって里見氏の勢力下に置かれた筈の上総土岐氏は房相一和の時期中も一貫して北条氏の傘下として行動し、天正16年(1588年)以後、里見側の正木頼忠と2年にわたって土岐氏の万喜城周辺にて争いを続けている。その正木頼忠も天正11年(1583年)頃に北条氏から離反を勧められている(「正木文書」)。一方、里見氏側も何もしなかった訳ではなかった。すなわち、織田信長の家臣滝川一益上野国に進出すると、義頼は直ちに一益に使者を送り、織田政権に従う意向を示している。また、信長の死後に北条氏政と徳川家康の間で発生した天正壬午の乱では北条氏に援軍を送る一方で、その状況を佐竹義重に通報している。ところが、天正12年(1584年)に北条氏政と佐竹義重率いる関東諸大名の連合軍による沼尻の合戦では、直接の記述は無いものの房州の兵が北条方に加わったとする記述(「歴代古案」)があり、里見氏が北条方で参戦した可能性が指摘されている。そして、天正13年(1585年)に里見義康が当主となると、北条氏が祝儀の使者を派遣して里見氏も返礼を送っている。だが、この時期より北条氏・里見氏双方ともに相手方の「船改め」(船舶の臨検)を強化する動きに出るようになる。この時期になると、里見氏の外交は北条氏への従属を強めながら、豊臣政権・佐竹氏による反北条氏連合とも一定の関係を保つことで北条氏からの警戒を受けるという矛盾した路線を採るようになっていった。なお、天正16年(1588年)に惣無事令に関連して出された豊臣政権の国分は、房相一和の追認とも言える内容であった。

そして、その矛盾が一気に露呈したのが、天正18年(1590年)に発生した小田原征伐であった。この戦いの結果、里見氏は旧来においては「遅参」によって豊臣政権によって上総を没収されたとされ、近年ではこれを否定して小弓公方・足利義明の遺児頼淳を擁して三浦半島へ渡海進軍し、鎌倉公方家再興を標榜し独自の禁制を発したことが、私戦を禁じた惣無事令違反に問われたと説が有力になっている。ただし、「遅参」の内容が房相一和を理由とした北条氏討伐参加への消極的な姿勢を示しているとすれば、旧説も全く的外れとは言えない可能性もある。

小田原征伐による北条氏の没落と豊臣政権による里見氏に対する上総南部の没収、上総一国を含む旧北条氏支配地域の大半が新領主の徳川家康に与えられたことによって里見氏・北条氏の双方の合意に基づく房相一和に基づく国分は解体され、統一政権(豊臣政権)による新たな国分が導入されることになった。


  1. ^ 滝川恒昭「北条氏の房総侵攻と三船山合戦」(千葉城郭研究会 編『城郭と中世の東国』(高志書院、2005年)ISBN 978-4-86215-006-6
  2. ^ 細田大樹「越相同盟崩壊後の房総里見氏-対甲斐武田氏「外交」の検討を通じて-」(佐藤博信 編『中世東国の政治と経済 中世東国論:6』(岩田書院、2016年) ISBN 978-4-86602-980-1
  3. ^ 頼忠は父である正木時忠が一時北条氏に寝返った際に人質として小田原に送られたことがあり、妻は北条氏隆あるいは北条氏尭の娘であった。
  4. ^ 真里谷は現在の千葉県木更津市、高滝・池和田は同市原市にある。
  5. ^ 『千葉県の歴史』資料編 中世4(県外文書)P479「太田道誉資正書状写」(天正5年12月28日付)
  6. ^ 滝川恒昭「中世東国海上交通の限界・制約とその対策」(浅野晴樹・齋藤慎一 編『中世東国の世界 2南関東』(高志書店、2008年) ISBN 978-4-90664-182-6
  7. ^ a b 細田大樹「北条氏康の房総侵攻とその制約」黒田基樹編 『北条氏康とその時代』 戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月。ISBN 978-4-86403-391-6 P332-337.






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「房相一和」の関連用語

房相一和のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



房相一和のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの房相一和 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS