房相一和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/15 14:14 UTC 版)
前史
北条氏と房総半島との関わりを示す最古の記録は、永正13年(1516年)に北条早雲(伊勢盛時)が、真里谷城の武田氏と小弓城の原氏との争いに関与して上総国に攻め込んだのが最初とされている(「藻原寺文書」)。この年は北条氏が三浦氏を滅ぼして三浦半島を制圧し、東京湾(内海/江戸湾)を挟んで房総半島と対峙するようになった年でもあった。一方、里見氏では里見義通・義豊親子が当主として安房国を平定した時期に相当し、永正12年(1515年)には義通の弟の実堯を妙本寺に配置して、ここを本拠として上総国に進出を開始していた。両者の勢力圏が重なり合うようになったのは、上杉氏の城であった武蔵国江戸城が北条氏に占領され、同氏による東京湾支配の動きが活発化してからのことと考えられている。
その後、下総国における古河公方と小弓公方の争いに関わる形で里見・北条両氏が軍事衝突を行うようになる。代表的なものとしては、大永6年(1526年)の里見義豊の品川・鎌倉攻撃、そして里見・北条両氏が2度にわたって激突した国府台合戦などが挙げられる。ただし、両氏の勢力は海上においては隣接していたものの、陸上においては下総の千葉氏・上総の武田氏(真里谷氏)が依然として存在して緩衝地帯のような役割を果たしており、両氏の勢力が直接衝突するようになったのは、千葉氏が北条氏の影響下に置かれ、武田氏(真里谷氏)が没落して里見氏がその領国に進出した天文22年(1553年)以後のことである。北条氏康によって里見義堯・義弘親子が本拠としていた上総国金谷城・佐貫城が奪われて久留里城も包囲されるなど、北条氏優位に展開していったが、里見義堯は関東管領上杉謙信と同盟を結んでその支援を受け、また北条氏康が推す古河公方足利義氏に対抗してその兄である足利藤氏を擁立するなど激しく争った。特に永禄10年(1567年)に行われた三船山合戦において里見義堯が北条氏政を破って里見氏が反撃を開始したことは、早雲以来大きな敗戦をせず勢力拡大を続けてきた北条氏にとって、当主が率いた主力の大敗による初の勢力圏縮小という大事件となった[1]。
- ^ 滝川恒昭「北条氏の房総侵攻と三船山合戦」(千葉城郭研究会 編『城郭と中世の東国』(高志書院、2005年)ISBN 978-4-86215-006-6)
- ^ 細田大樹「越相同盟崩壊後の房総里見氏-対甲斐武田氏「外交」の検討を通じて-」(佐藤博信 編『中世東国の政治と経済 中世東国論:6』(岩田書院、2016年) ISBN 978-4-86602-980-1)
- ^ 頼忠は父である正木時忠が一時北条氏に寝返った際に人質として小田原に送られたことがあり、妻は北条氏隆あるいは北条氏尭の娘であった。
- ^ 真里谷は現在の千葉県木更津市、高滝・池和田は同市原市にある。
- ^ 『千葉県の歴史』資料編 中世4(県外文書)P479「太田道誉資正書状写」(天正5年12月28日付)
- ^ 滝川恒昭「中世東国海上交通の限界・制約とその対策」(浅野晴樹・齋藤慎一 編『中世東国の世界 2南関東』(高志書店、2008年) ISBN 978-4-90664-182-6)
- ^ a b 細田大樹「北条氏康の房総侵攻とその制約」黒田基樹編 『北条氏康とその時代』 戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月。ISBN 978-4-86403-391-6 P332-337.
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