宮崎勤
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生い立ち
幼少期
宮崎勤は1962年8月21日、東京都西多摩郡五日市町(現在のあきる野市)小和田で、地域紙『秋川新聞』を発行していた「新五日市社」を経営する、裕福な一家の長男として出生した[6]。勤の実家は五日市町小和田181番地(座標)に所在していた[1][2][3]。両親は共働きで多忙なため、生まれてまもなく子守りの男性[注 1]を住み込みで雇い入れている[7]。幼少期の勤を、ほとんどこの男性と祖父が面倒をみていた[8]。
宮﨑家は、曽祖父が村会議員、祖父が町会議員を務めるなど地元の名士であった[9]。家族は祖父、祖母、両親、妹2人の7人である[9]。祖父は引っ込み思案な勤を連れて歩き、かわいがっていた[10]。
勤は幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」[11]に罹患し、当時は日本で症例が150程度の珍しい身体障害があったが、医者から「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう」と言われ、両親は「勤は幼いころから掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたとされる。4歳のときに手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」と、積極的な治療を受けさせなかった[12]。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため「非常に辛かった」と供述している[13]。
宮﨑の父は仕事ばかりで家庭を顧みない無責任な父だったという。宮﨑の母は姑と折り合いが悪く、常に勤の子育てを廻って陰湿な対立をしていたという。宮﨑の母親は常に世間体を優先していたため、勤に愛情を全く注がなかった。
小中学校時代
小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった[14]。成績は上位で、自身は小学校のころから算数が得意と語り、算数の成績も良かった。[15]また、国語と社会科を苦手としていた[15]。
中学生時代は1、2年生のときは陸上部、3年生のときは将棋部に所属。通信教育で空手を習い、空手の型を同級生に見せることがあった[16]。
高校・短大時代
手の障害を気にして、自宅からの通学に片道2時間を要する男子校であった都内の高校へ1978年に進学するが、両親は「英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した」と勘違いしていた。同級生は「暗く目立たない少年だった」と証言している。高校に入ってからの成績は下降の一途で、本人は系列大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績にまで低下し、希望を果たす以前の状態であった。
高校卒業後の1981年4月、都内の短期大学に進学[17]する。このころはパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった[18]。1982年の短期大学在学中にNHKのトーク番組「YOU」のスタジオ収録に友人とともに出かけているが、アナウンサーが近づきインタビューをしようとすると、すぐさまほかの出演者の後ろに隠れてインタビューを受けることはなかった[19]。 宮崎の逮捕後に判明したことだが、同級生に俳優の川﨑麻世がいた。しかし、川﨑がインタビューで「僕は記憶力が良い方だし、クラスは全部で80人ほどだったから、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった」と答えたほど、影の薄い存在だったという。
短大卒業後
1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務[20]。勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かった[21]。1986年3月に上司から神奈川県への転勤を勧められたが、本人が拒否したため自己都合退職[注 2]する[22]。家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる生活が数か月続いた[23]。9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りにいく程度の簡単な手伝いであった[24]。このころアニメの同人誌を発行するが、態度や言動から仲間に嫌われ、1回だけの発行で終わっている。その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換・収集するようになるが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞することはなかった[25]。
1988年5月16日、祖父が死去[26]。8月22日に第一の犯行を起こす[27]。1989年3月には晴海のコミックマーケットに漫画作品を出品している[28]。同年7月23日に女児へのわいせつ行為の現行犯で逮捕、9月2日に一連の事件の犯人として起訴された。
注釈
- ^ 子守りの男性は30代の知的障害のある男性だったと言われている。
- ^ 実質的には解雇される。
- ^ 『ビートたけしのガチバトル』(2010年12月29日放送)[47]。
- ^ 劇中では同事件以外にも、オウム真理教による一連の事件や和歌山毒物カレー事件に関連する人物などもモデルとなって登場する。
出典
- ^ a b c 『読売新聞』1989年8月11日東京朝刊一面1頁「Dちゃん殺害と断定 宮崎きょう11日再逮捕 「Aちゃん事件」関連も追及」(読売新聞東京本社)
- ^ a b c 『読売新聞』1989年8月11日東京夕刊第一社会面15頁「Dちゃん殺し 宮崎の自宅裏山捜索/警視庁深川署」(読売新聞東京本社)
- ^ a b c 『読売新聞』1990年3月30日東京夕刊三面3頁「連続幼女誘拐殺人 宮崎被告に対する起訴状全文」(読売新聞東京本社)
- ^ 福田康夫 2007, pp. 14–15.
- ^ a b c d 『埼玉新聞』2008年6月18日朝刊第2版一面1頁「宮崎死刑囚に刑執行 幼女連続誘拐殺人 判決確定から2年 鳩山法相で計13人 ついに謝罪なく 言動で社会を翻弄」(埼玉新聞社)縮刷版315頁。
- ^ 一橋(2003)、pp.61-62
- ^ 一橋(2003)、p.164
- ^ 一橋(2003)、p.166
- ^ a b 一橋(2003)、p.62
- ^ 一橋(2003)、pp.130-131
- ^ 肩・肘の外傷と疾患 先天性橈尺骨癒合症
- ^ 一橋(2003)、pp.64, 87-88
- ^ 一橋(2003)、pp.66-68
- ^ 一橋(2003)、p.70
- ^ a b 一橋(2003)、p.76
- ^ 一橋(2003)、p.75
- ^ 一橋(2003)、p.100
- ^ 一橋(2003)、p.101
- ^ 一橋(2003)、p.102
- ^ 一橋(2003)、pp.109-110
- ^ 一橋(2003)、p.110
- ^ 一橋(2003)、p.112
- ^ 一橋(2003)、pp.112-113
- ^ 一橋(2003)、p.113
- ^ 一橋(2003)、pp.119,340
- ^ 一橋(2003)、p.175
- ^ 一橋(2003)、p.9
- ^ 一橋(2003)、p.348
- ^ 『読売新聞』1997年4月14日東京夕刊社会面19頁「連続幼女誘拐殺人・宮崎被告に判決 死刑…まるで人ごと 無表情、軽くあくび」「被告席で怪獣の絵(森田清司)」(読売新聞東京本社)
- ^ 『読売新聞』1996年7月17日東京夕刊社会面15頁「連続幼女誘拐殺人 宮崎被告3年半ぶり被告人質問/東京地裁」(読売新聞東京本社)
- ^ a b c 『毎日新聞』1997年4月14日大阪夕刊社会面15頁「連続幼女誘拐殺人事件 宮崎勤被告に死刑判決 「死刑」に身じろぎもせず」(毎日新聞大阪本社【滝野隆浩、山科武司】)
- ^ 『産経新聞』2000年9月29日東京朝刊第一社会面「連続幼女誘拐殺人 控訴審で宮崎被告「もっと有名になりたい」」(産経新聞東京本社)
- ^ a b c 『読売新聞』2000年10月26日東京朝刊第二社会面38頁「連続幼女誘拐殺人 宮崎被告に後見人選任申請 母親「不利益判断する能力欠く」」(読売新聞東京本社)
- ^ 『毎日新聞』2000年10月26日東京朝刊総合面27頁「テレビ朝仁の手紙公開で、宮崎勤被告の母が後見人選任の審判申し立て――東京家裁に」(毎日新聞東京本社)
- ^ a b c 『東京新聞』2006年1月17日夕刊社会面11頁「宮崎被告 死刑確定へ 断罪 心見えぬまま 裁判長『冷酷で残忍』 遺族の悲しみ癒えず」「宮崎被告 17年間 一人の世界 冗舌手記 類似版言及も」(中日新聞東京本社)
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- ^ 読売新聞社会部 2009, p. 19.
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- ^ 篠田博之 2012, p. 155.
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- ^ “元法相、執行する死刑囚選んだ経緯語る”. MBSニュース (毎日放送). (2010年12月13日) 2018年11月29日閲覧。
- ^ 『埼玉新聞』2008年6月18日第2総合面2頁「フォーカス 宮崎勤死刑囚 刑執行の波紋 惨劇直後に治安対策? 「正義」首ひねる被害者も」(埼玉新聞社) - 縮刷版316頁。
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- ^ a b 『毎日新聞』1996年10月7日大阪夕刊社会面13頁「連続幼女誘拐殺人事件 宮崎勤被告の論告求刑 M君今も「夢の中」」(毎日新聞大阪本社)
- ^ 『朝日新聞』2006年1月18日東京朝刊東京都心第一地方面31頁「薄れる記憶、続く不安 自宅は跡形もなく 宮崎被告に死刑 /東京都」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『読売新聞』2006年1月18日東京朝刊多摩版35頁「連続幼女誘拐殺人事件 宮崎被告の死刑確定へ 事件の記憶、今も=多摩川 当時の自宅周辺 住民に消えぬ疑問」(読売新聞東京本社)
- ^ 『読売新聞』2008年6月17日東京夕刊社会面19頁「宮崎死刑囚の刑執行 「心の内」見せぬまま 遺族に謝罪なし、最後まで幻聴訴え」(読売新聞東京本社)
- ^ 鈴木(2010)、p.62
- ^ 『毎日新聞』1996年10月7日東京夕刊社会面9頁「検察側「社会に対する挑戦」――連続幼女誘拐殺人事件、宮崎勤被告に死刑求刑 「生命の重み」を突きつけ」(毎日新聞東京本社)
- ^ テレビ東京「解禁!暴露ナイト(かいきんばくろないと)」より
- ^ 『解禁!暴露ナイト』
- ^ 鈴木(2010)、pp.63,64
- ^ 鈴木(2010)、pp.66-67
- ^ 鈴木(2010)、pp64-67
- ^ 鈴木(2010)、pp63-64
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