姉川の戦いとは? わかりやすく解説

姉川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 23:43 UTC 版)

姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代元亀元年6月28日1570年7月30日/グレゴリオ暦8月9日)に近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)で、織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍の間で行われた合戦である[4]




注釈

  1. ^ 越前の城にみられる畝状竪堀の痕跡があり朝倉氏の関与が認められる。
  2. ^ 訳者によっては陣払いして引いたのは信長側だとしているものもある。(榊山 潤「原本現代訳 信長公記(上)」など)
  3. ^ この時、「浅井側先鋒磯野員昌率いる浅井家精鋭部隊が織田方先鋒坂井政尚、続いて池田恒興、木下秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家の陣を次々に突破し13段ののうち実に11段までを打ち破る猛攻を見せた」というが、このエピソードは元禄時代の浅井三代記が初出で、信長公記・三河物語・当代記などには、記述が見えないため、疑問視する声もある。
  4. ^ 『年代記抄節』にも「(浅井・朝倉軍が)横山へ後巻両手に取出、押寄、即時に両手一同に切崩、信長得大利候」と、対陣する間もなく即刻合戦に突入して切り崩した様子が伝えられている。
  5. ^ 信長はすでに若狭国武田信方宛6月6日付の書状で、6月28日に合戦になるので高島まで出陣するように要請している。つまり合戦期日を予め決めていたということで、それは浅井・朝倉方にも通達していたことになる。『新・信長公記』高澤2011

出典

  1. ^ 織田10000・徳川3000(三河物語)、織田不明・徳川5000~6000(服部半三武功記)、織田不明・徳川5000(甫庵信長記)、織田35000・徳川5000(甲陽軍鑑
  2. ^ 朝倉8000・浅井5000(信長公記)、朝倉15000・浅井5000~6000(津田文書)、朝倉15000・浅井8000(益田家文書)、30000(毛利家文書)、朝倉15000~16000・浅井6000~7000(年代記抄節)、朝倉10000余+浅井8000余(南部文書)、朝倉不明・浅井10000(松平記)、30000(三河物語)、8000~10000(服部半三武功記)、朝倉20000・浅井不明(甫庵信長記)、朝倉15000・浅井3000(甲陽軍鑑)
  3. ^ 1100(信長公記)、8000(益田家文書)、朝倉5000~9600+浅井7000~8000(言継卿記)、数千(年代記抄節)、6000(日本耶蘇会年報)
  4. ^ 姉川の戦い』 - コトバンク、『姉川の戦』 - コトバンク、「姉川の戦い」 - ジャパンナレッジ
  5. ^ 『朝倉氏五代の発給 文書福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館古文書調査資料1』
  6. ^ 大日本史料総合データベース - 甫庵信長記”. 11/28/2018閲覧。
  7. ^ 高澤等著『新・信長公記』 ブイツーソリューション、2011年


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