国際化学オリンピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 00:38 UTC 版)
歴史
国際化学オリンピックを開催する案を初めて出したのは、チェコスロバキアであった。目的として、国家間の交流や情報交換を挙げ、社会主義の国々(ルーマニアを除く)を招待したが(このため、現在でも一次選考への応募者数は、旧社会主義国家の国が非常に多いものとなっている[2])、1968年の5月にプラハの春が起きた。そのため、チェコスロバキアとソビエト連邦の関係が緊張し、最終的にポーランドとハンガリーの2国のみが国際会議に参加した。そして1968年の6月18日から6月21日に第1回大会がチェコスロバキアで行われた。この際参加した選手の数は6人で、理論問題は4問であった。
そして、翌年の1969年に第2回大会がポーランドで行われ、新たにブルガリアが参加した。この年の各国の選手数は5人であり、新たに実験試験が追加された。また、より多くの社会主義国家を招待し、出場できる生徒数を4人に制限することに決まった。
第3回大会はハンガリーで行われ、新たに東ドイツ、ルーマニア、ソビエト連邦が参加した。また、第4回大会では初めて準備問題が用意された。第6回大会ではルーマニアがスウェーデンとユーゴスラビアを招待し、西ドイツとオーストリアがオブザーバーを派遣した。西ドイツはNATO諸国としては初めてのオブザーバー参加であった。
こうして第1回から第11回大会までは東側諸国で開かれていた国際化学オリンピックだったが、モスクワオリンピックで西側がボイコットした年の1980年第12回大会では初めて、西側諸国であるオーストリアで開かれた。ただ、この年、ソビエト連邦は参加を見送っていて、参加国数は13カ国となっている。
しかし、ロサンゼルスオリンピックを東側がボイコットした1984年には、第16回西ドイツ大会にアメリカ合衆国が参加し、その大会には21カ国もの国が参加した。そして、鉄のカーテンが取り払わられ、ソビエト連邦が崩壊したことに加え、アジアやラテンアメリカでの関心が高まったため、1998年の第30回大会には47の国と地域が参加した。以来、例年約60か国から200人を超える高校生が参加していて、2010年の第42回日本大会では過去最高の68の国と地域が参加した。
日本は1988年、1989年とオブザーバーを派遣したが、国内で、代表生徒の選抜やトレーニングの実施、財政的支援体制が整っていなかったため、参加は見送られた。その後、化学グランプリが始まった。そして、2回にわたるオブザーバー派遣が考慮され、2002年のオブザーバー派遣を経て、2003年のギリシア(アテネ)大会から本参加を果たした[3]。2010年の日本大会では金メダル2人、銀メダル2人という過去最高の記録を出している。
- ^ “エクスカーションとは? - 国土交通省中部地方整備局”. 2020年1月8日閲覧。
- ^ 渡辺正監修 『化学オリンピック完全ガイド』 化学オリンピック日本委員会編、化学同人、2008年、15頁
- ^ 上野幸彦・菅原義之・本間敬之・森敦紀、米澤宣行著『完全攻略 化学オリンピック』化学オリンピック日本委員会+渡辺正編、日本評論社、2009年、202頁
- ^ 渡辺正監修 『化学オリンピック完全ガイド』 化学オリンピック日本委員会編、化学同人、2008年、18-19頁
- ^ 上野幸彦・菅原義之・本間敬之・森敦紀、米澤宣行著『完全攻略 化学オリンピック』化学オリンピック日本委員会+渡辺正編、日本評論社、2009年、4頁
- ^ 渡辺正監修 『化学オリンピック完全ガイド』 化学オリンピック日本委員会編、化学同人、2008年、36頁
- ^ 上野幸彦・菅原義之・本間敬之・森敦紀、米澤宣行著『完全攻略 化学オリンピック』化学オリンピック日本委員会+渡辺正編、日本評論社、2009年、198頁
- ^ IChO日本大会 ロゴマーク
- ^ 伊藤雄二・沼田治・渡辺正 「座談会 現場が語る 科学のオリンピック」『化学』65号、化学同人、2010年、13頁
- ^ IChO日本大会 スケジュール
- ^ 渡辺正監修 『化学オリンピック完全ガイド』 化学オリンピック日本委員会編、化学同人、2008年、13-14頁
- ^ 『化学』編集部「特集 まもなく開催!!国際化学オリンピック 歴代の日本代表メンバー」『化学』65号、化学同人、2010年、19頁
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