国分氏 (陸奥国) 概要

国分氏 (陸奥国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/22 04:10 UTC 版)

概要

江戸時代の系図によれば国分胤通が鎌倉時代に宮城郡国分荘を領したのが初めだが、藤原北家秀郷流長沼氏一族の僧が婿に入って創始したとの伝えもあり、正確なところは不明である。

南北朝時代に現れる国分氏は前述の藤原北家秀郷流で、国分寺郷を領し、戦国時代には近隣の土豪を従えて宮城郡南部から名取郡まで勢力を伸ばした。居城としては千代城(仙台城の前身)、小泉城(若林城の前身または近接地)、松森城が伝えられる。北で留守氏と対抗し、南で伊達氏に面して和戦があった。

戦国時代の終わりに伊達氏から当主として国分盛重を迎えて伊達氏に従属したが、家臣には盛重に反抗する者があった。1596年に政宗は盛重を追放し、国分の家臣団を伊達家の直属にした。盛重は佐竹氏に身を寄せ、子孫は秋田久保田藩で親類衆として幕末まで存続した。

伊達氏の家臣としては信濃国小県郡国分庄を発祥で藤原姓と称した国分氏があり、これは仙台藩太刀上家格で続いたが、本稿で述べる国分氏とは別である[3]

出自をめぐる問題

国分胤通陸奥国の国分荘を得たことを記すもっとも古い史料は元禄16年(1703年)成立の『伊達正統世次考』である[5]。陸奥国の国分氏に関する系図はこれと同じく、平氏の流れをくむ千葉介常胤の五男、国分胤通が奥州藤原氏討滅時の戦功により宮城郡国分荘を賜ったことを起源とするといい、『封内風土記』など地誌類の記述も同じである[6]。系図の一つ、佐久間義和が編集した「平姓国分系図」は、胤通が郷六に築城したと伝える。古内氏所蔵の「平姓国分系図」も胤通を祖とするが、二つの系図には胤通の次から戦国時代の宗政の前まで、一致する人名がない。また、下総国国分氏に伝わる系図と比べても、『吾妻鏡』に出てくるような公知の箇所を除けば一致点がない。系譜の途中で血統の入れ替えがあったためではないかと推測する説もあるが[7]、諸系図の信頼性は低いと言わざるをえない[8]

戦国時代に書かれた留守氏の重要史料『奥州余目記録』は、長沼氏の一族である僧が、有能なため婿養子になったのが国分氏だと述べている[9][10][11]。それによれば、小山氏白河氏、登米氏、八幡氏、国分氏は一族だという[12][13]。小山氏・白河氏は藤原秀郷の子孫であって、平姓千葉氏系ではない。同時代史料として、室町時代の神社の棟札に国分氏の分かれである郷六氏が建立の記録を残しており、そこに現れる国分氏は藤原朝臣で長沼を称している[注釈 1]

これと別に、佐久間「平姓国分系図」には長沼氏でなく結城氏が国分氏の養子に入って国分胤親になったとする箇所がある。「古内氏系図」にも「結城朝光十二世国分治郎宗弘」と見える。結城朝光は結城氏の祖である。江戸時代の地誌には、結城七郎が南北朝時代に小泉城[注釈 2]にいたとか、茂ヶ崎城[注釈 3]にいたとか、あるいは杭城を落としたとあり、結城氏の活動が知られる[14]

以上をふまえて出される諸説には、まず鎌倉時代に国分胤通を祖とする国分氏が陸奥国にいたという説と、胤通との関係を否定して単に不明とする説がある[注釈 4]。ついで、南北朝時代以降の国分氏について、長沼氏系とする説と、結城氏系であるとする説がある[注釈 5]。平姓国分氏がそのまま続いたとする説はない。

南北朝時代

陸奥国の国分氏で同時代的史料に初めて現れる人物は南北朝時代国分淡路守で、文和2年(1353年)8月29日付で奥州管領斯波家兼の下僚が国分淡路守に命じた文書に出てくる。それは、石川兼光が新たに与えられた宮城郡南目村の支配が本主の沢田氏に妨害されているので、南目村を石川氏の代官に引き渡すよう命じるものであった[16]。国分氏がこの任務を与えられたのは、遠く離れた石川郡にいた石川氏と異なり、彼が南目村の近くにある国分寺郷に領地を持ち、そこに居館をおいていたからであろう。翌年12月20日付で斯波家兼は石川兼光に南目村を預け置いたと知らせており、国分氏の働きの成果と思われる[17]

国分氏はこれ以前の観応元年(1350年)から翌2年(1351年)の岩切城合戦で吉良貞家に味方して、勝利した[20]。『奥州余目記録』は、敗れた畠山国氏についた留守殿が負け大将の味方で分限を下げたと述べるとともに[22]、別のところで、国分は勝ち大将の味方を致し威勢を増したと記す[24]。しかしその後、国分淡路守は国分寺郷の半分の地頭職を取り上げられ、その半分は、貞治2年(1363年)7月11日に相馬胤頼に与えられた[25]。国分氏はやがてその領地を取り戻した。


注釈

  1. ^ 棟札そのものを調査した文は、(仙台市史編さん委員会 1995)では資料番号256(372頁)、284(381頁)、327(402頁)にある。神社がある芋沢村が『安永風土記書出』の一部として安永3年(1774年)7月に記した報告の控えは、『宮城町誌』史料編(改定版)202-203頁にある。これらを長沼氏・郷六氏・国分氏をつなげる根拠とするのは、(平 1989, pp. 16–17)、(仙台市史編さん委員会 2000, pp. 218–221)である。
  2. ^ 仙台市若林区南小泉。江戸時代初期の若林城の前身か、付近にあったと推測される。
  3. ^ 仙台市太白区大年寺山にあった城。
  4. ^ 佐々木慶市(「中世の仙台地方」・『宮城県史』・「国分氏について」)と紫桃正隆(『みやぎの戦国時代』[15])が国分氏の宮城郡拝領を認める。(仙台市史編さん委員会 2000, p. [要ページ番号])は不明とする。
  5. ^ 佐々木慶市、2000年刊『仙台市史』等が長沼氏と推定するが、紫桃正隆は結城氏系の可能性を指摘する。平重道「藩政時代以前の宮城町」は両方から入った可能性を見る。
  6. ^ この白石氏は地名でいうと今の泉区根白石で、今の白石市にいた白石氏とは異なる。
  7. ^ このほか御落胤事件あり。 享保6年(1721年)、国分荘七北田の国分盛春(川村玄硯)という医者が、盛重と国分盛廉の娘の男児、盛廉の娘に仕えた女性が政宗の妾となって生まれた落胤双方の血を引く(つまり政宗の孫で盛重の曽孫)と名乗り出て証拠となる物を提示し、仙台藩に相応の扶持を求めた。 藩は十数年の詮議の末、これを偽者と結論づけ、磔刑、親族らも遠島に処した。(『伊達治家記録』)
  8. ^ 1655年平塩熊野神社妙法堂を平塩寺と改めた際住職として迎えられたという。
  9. ^ なお、「秋田武鑑」では実永は奥州覚性院開基で盛重の弟ともある。
  10. ^ 通称は主膳。特に伊達忠宗に重用された。
  11. ^ 九曜は国分氏の家紋。 仙台藩祖政宗によって伊達氏でも裏紋のひとつに加えられたが、 古くから国分氏、相馬氏などを含め千葉氏の流れを汲むと伝わる家などの代表的な紋として知られていた。 なお、政宗はのちにこの紋を片倉景綱(小十郎)に与えている。

出典

  1. ^ a b 太田 1934, p. 2279.
  2. ^ 丹羽 1970, p. 143.
  3. ^ 佐々木 1950, p. 232, §.「中世の仙台地方」.
  4. ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 368.
  5. ^ 『伊達正統世次考』4応永9年条[4]
  6. ^ 田辺 1975a, p. 7, §.巻之一府城「仙台城」.
  7. ^ 平 1989, pp. 15–16, §.「藩政時代以前の宮城町」.
  8. ^ 佐々木 1950, pp. 230–232, §.「中世の仙台地方」.
  9. ^ a b 仙台市史編纂委員会 1953, p. 77.
  10. ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 235.
  11. ^ 太田 1934, p. 2280.
  12. ^ 仙台市史編纂委員会 1953, p. 87.
  13. ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 248.
  14. ^ 紫桃 1993, pp. 258–260.
  15. ^ 紫桃 1993, p. [要ページ番号].
  16. ^ 『白川文書』。(宮城県 1987a, p. 203)(仙台市史編纂委員会 1953, p. 49)に「沙彌某等施行状」として、(仙台市史編さん委員会 1995, p. 356)に「奥州管領府奉行人連書奉書」として収録。
  17. ^ 『白川文書』。(宮城県 1987a, p. 350)(仙台市史編纂委員会 1953, p. 50)に「大崎家兼安堵状」、(仙台市史編さん委員会 1995, p. 357)に「斯波家兼預状」として収録。
  18. ^ a b 仙台市史編纂委員会 1953, p. 75.
  19. ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 233.
  20. ^ 『奥州余目記録』[18][19]
  21. ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 232.
  22. ^ 『奥州余目記録』[18][21]
  23. ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 239.
  24. ^ 『奥州余目記録』。[9][23]
  25. ^ 『相馬文書』。(宮城県 1987a, p. 203)(仙台市史編纂委員会 1953, p. 53)に「大崎直持宛行状」として、(仙台市史編さん委員会 1995, p. 359)に「斯波直持宛行状」として収録。
  26. ^ 宮城県 1987a, p. 390.
  27. ^ 以上各氏は『国分文書』の「佐藤純粋書状」[26]平重道「藩政時代以前の宮城町」23頁。
  28. ^ 仙台市史編纂委員会 1953, p. 80.
  29. ^ 仙台市史編さん委員会 1995, pp. 239–240.
  30. ^ 仙台市史編さん委員会 2000, pp. 321–322.
  31. ^ 『奥州余目文書』[28][29][30]
  32. ^ 宮城県 1987a, p. 389.
  33. ^ 『留守文書』。(宮城県 1987a, p. 388)、(仙台市史編さん委員会 1995, p. 375)に「留守景宗宛行状写」としてある。
  34. ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 380.
  35. ^ 『伊達正統世次考』8下[34]
  36. ^ 宮城県 1987a, p. [要ページ番号].
  37. ^ 仙台市史編さん委員会 2000, p. 363.
  38. ^ 『伊達正統世次考』[37]
  39. ^ 宮城県 1987a, p. 394.
  40. ^ a b 仙台市史編さん委員会 1995, p. 419.
  41. ^ 『国分文書』[39][40]
  42. ^ a b 宮城県 1987a, p. 393.
  43. ^ 『性山公治家記録』3天正5年[42][40]
  44. ^ 佐久間「平姓国分系図」[42]
  45. ^ 1995年刊『仙台市史』通史編2(古代中世)402-403頁[要文献特定詳細情報]
  46. ^ 1995年刊『仙台市史』通史編2(古代中世)410頁[要文献特定詳細情報]
  47. ^ 1995年刊『仙台市史』通史編2(古代中世)412頁[要文献特定詳細情報]、同通史編3(近世1)56-57頁。
  48. ^ 佐久間義和『奥羽観蹟聞老志』巻之六、『仙台叢書奥羽観蹟聞老志』上巻202頁。
  49. ^ 1995年刊『仙台市史』通史編2(古代中世)418-419頁[要文献特定詳細情報]
  50. ^ 「秋田県公文書館蔵『国分文書』」所収「覚性院納所浄光房口上書」、「覚性院澄祐覚書」。





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