四条天皇
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后妃
在位中の元号
- 貞永 (1232年10月14日) - 1233年4月15日
- 天福 1233年4月15日 - 1234年11月5日
- 文暦 1234年11月5日 - 1235年9月19日
- 嘉禎 1235年9月19日 - 1238年11月23日
- 暦仁 1238年11月23日 - 1239年2月7日
- 延応 1239年2月7日 - 1240年7月16日
- 仁治 1240年7月16日 - (1242年1月9日)
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。なお、父の後堀河天皇観音寺陵も泉涌寺の寺内地に所在している。
仁治3年(1242年)1月19日に入棺、同月25日に泉涌寺後山の当陵に奉葬された。現存する陵は九重石塔である。この陵地は、340余年後の天正14年(1586年)に陽光院太上天皇が奉葬されて以降、後水尾天皇から仁孝天皇に至る13代の天皇および皇后陵が営まれることとなった。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
備考
四条天皇は皇子女を作らないままに崩御し、守貞親王(後高倉院)の血統が絶えた。
もともとこの系統は、承久3年(1221年)の承久の乱で幕府に敗れた後鳥羽上皇の血統以外の者に皇位を継承させるという鎌倉幕府の方針の下に、当時10歳の後堀河天皇が即位したことに始まったが、実父である守貞親王も天皇の2人の実兄も既に僧侶となっており、しかも即位の2年後には守貞親王も亡くなったために幼少の天皇だけが残されるという、「皇統断絶」の危機と隣り合わせの状態となった。この状態は、成人した後堀河天皇が四条天皇を儲けたことで一時的には解消されたが、他に皇子を儲けることなく後堀河上皇は23歳で崩御、またもや当時4歳の四条天皇のみが残される状況になった。このため、公家社会には「皇統断絶」の危惧が常につきまとい、公家の中には四条天皇在世中よりその崩御の夢を見る者がいたという[7][8]。
四条天皇の崩御により、鎌倉幕府は新たな天皇を選ばざるを得なくなった。九条道家などの公卿たちが推す順徳天皇皇子の忠成王(仲恭天皇の異母弟)を退け、執権北条泰時は土御門天皇皇子の邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させたが、この際に11日間の空位期間が発生し、廷臣の嘆きは甚だしかった。天皇空位は称徳天皇から光仁天皇に至る神護景雲4年(770年)の55日間以来472年ぶりで、以後は称光天皇から後花園天皇に至る正長元年(1428年)の7日間まで186年間起こらなかった[注 2]。
注釈
出典
四条天皇と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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