南ベトナムの国歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/16 23:06 UTC 版)
なお、「市民への呼びかけ」と「南部解放」の使用時期が一部重複しているのは、南ベトナム内で二つの政府が並立していたからである。
南ベトナムの国歌と作者
南ベトナムの国歌のうち、「青年行進曲」と「南部解放」の作詞・作曲、及び「市民への呼びかけ」の作曲はルー・フー・フォク(Lưu Hữu Phước, チュノム:劉友福;1921年 - 1989年)が手掛けている。
フランス植民地支配に対する抵抗意識を持つルー・フー・フォクは、1939年にサイゴンの学生クラブ向けにフランス語歌曲「学生行進曲」(仏:La Marche des Étudiants)を作曲し、1941年から「学生行進曲」の旋律を使って植民地支配に抵抗するベトナム語の歌詞を3回に渡り作詞していた。そして1945年に仏印処理(ベトナム帝国成立)の一環として日本当局がベトナム人に青年先鋒隊を結成させると、ルーは「学生行進曲」の旋律に新たなベトナム語歌詞を付けて隊歌とした。これが、後に国歌となる「青年行進曲」である。
第二次世界大戦後、共産主義に傾倒したルーは1946年からハノイでベトナム民主共和国の文化政策に参画していた。一方、1948年にベトナム民主共和国と敵対するベトナム臨時中央政府(後のベトナム国)が樹立されると、彼らは青年先鋒隊隊歌だった「青年行進曲」をルーに無断で国歌に制定した。その為、1949年からルーはベトナム国による「青年行進曲」の無断使用を著作権者として非難する一方、フランスからの独立を望んて制作した歌曲をフランスの「傀儡政府」であるベトナム国が国歌とする状況をベトナムの声を通じて嘲笑した[1]。
その後、1955年にベトナム国はベトナム共和国へ体制変更するが、ベトナム共和国は1956年に「青年行進曲」の歌詞だけを変更して新国歌「市民への呼びかけ」としたので、ルーの著作権を侵害している状況に変わりはなかった。一方のルーは、1960年に結成された南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)の団体歌として1961年に「南部解放」を作詞・作曲し、自身も1965年に17度線を越えて南ベトナムへ秘密裏に戻り解放戦線の主要メンバーとなった。そして1969年に解放戦線が南ベトナム共和国臨時政府を樹立すると、臨時政府の閣僚として「南部解放」を国歌に流用した。
このような経緯から、冷戦下にもかかわらず、南ベトナムでは自由主義陣営に属する国が社会主義陣営に属する人物の曲・歌詞を国歌として使う奇妙な状態が最後まで続いていた。
青年行進曲
ベトナム語: Thanh niên Hành Khúc (チュノム: 靑年行曲) | |
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和訳例:青年行進曲 | |
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作詞 | ルー・フー・フォク(1945年) |
作曲 | ルー・フー・フォク(1939年) |
採用時期 | 1948年 |
採用終了 | 1956年 |
青年行進曲は、1945年に独立促進団体として結成された青年先鋒隊の隊歌として当初は制作され、1948年6月14日にベトナム臨時中央政府(暫定政府;1948年 - 1949年)が新国家の国歌に選定した。その後、ベトナム国(1949年 - 1955年)発足と共に正式な国歌となり、ベトナム国からベトナム共和国(1955年 - 1975年)への体制変換後も1956年まで使用された。独立を目指す青年達を対象に制作された歌曲の為、青年に新しい社会の建設を促す内容の歌詞となっている。
歌詞 | 英語公式訳 | 日本語訳 |
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Này thanh niên ơi! Đứng lên đáp lời sông núi. |
Youth of Vietnam, arise! And at our Country's call |
ベトナムの青年よ! |
- 1 南ベトナムの国歌とは
- 2 南ベトナムの国歌の概要
- 3 市民への呼びかけ
- 4 南部解放
- 5 関連項目
固有名詞の分類
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