井土霊山 井土霊山の概要

井土霊山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/27 19:17 UTC 版)

Portrait of Ido Reizan (井土霊山)

経歴

相馬中村藩士の和田祥重の子として現在の福島県で生まれた[1]。名は「経重」で「霊山」は雅号。字は子常。旧姓は和田であったが、後に秋月藩江戸詰め藩士の家である東京府麻布区我善坊町(現麻布一丁目)の井土家[2]に婿入りし井土姓となる。このため、井土経重の名でも著作がある。他の表記に井土靈山、井土経重、井土經重、靈山仙史、井𡈽経重がある。

官立宮城師範学校に入学し、二年間の在籍の後、校名変更を経た明治11年(1878年)に公立仙台師範学校(現在の東北大学)を卒業[3]。仙台立町小学校で訓導[4]、宮城県柴田郡船岡村で小学校長を務めた後[5]、明治14年(1881年)22歳で原町市の初代小学校長(当時の名称で「主長」)に就任する。自由党通信員として自由民権運動に参加。福島事件の年に離郷。警官練習所(明治19年(1886年)からおそらく明治22年(1889年)まで)勤務の後、様々な新聞社で記者や主筆などを務めた後、漢詩の素養を持った文筆家として活躍。『書画月報』や『陽明学』等の雑誌に健筆を揮う。大正5(1916)年に月刊雑誌『書道及画道』創刊。昭和8(1933)年に「南画観賞会」を創立。『書道及画道』では自身の手になる数々の記事(『講經活眼著者佐久間果園小傳』『丁巳元朝三首』『気韻』『野口小蘋女子の蓋棺評』など)や漢詩の他、董其昌の『画眼』、曽国藩の論書、姜白石の『続書譜』、阮元の『南北書派論』の和訳も行っている。

記者主筆としては『東京横浜毎日新聞』『東京毎日新聞』『大阪毎日新聞』『京華春報』『改進新聞』『実業新聞』『岡山山陽新聞[6]中国民報』『やまと新聞』『大和新聞』『毎夕新聞』などに在籍する。日本初の新聞常設コラム「硯滴」(のち「余録」)の創設時の執筆者であった[7]。『やまと新聞』からは経営者の松下軍治を批判して退社[8]

「進歩黨主義の靑年同志倶樂部」の評議員[9]や、東京の日暹協会準備会の世話人[10]も務める。『和漢五名家千字文集成』は版を重ね、平成1(1989)年にも出版されている。

建国大学の開学を33年さかのぼる1905年に満州大学の設立を提唱した。清国における近代の「新智識」の欠乏を清国の国力の発達への障害と捉え、日本で高等教育を受けた「上級」の人材の満州への移植、そしてこれによる新知識の清国満州への移植を唱えた。(『満洲富籤策』25-30頁)

昭和10年(1935年豊島区西巣鴨の自宅で死去。墓所は東京都文京区(当時の小石川区関口台町)の養国寺。東京朝日新聞は霊山の逝去を報じて曰く「漢学者で明治時代の操觚界に知られた豊島区西巣鴨二ノ二〇四〇井土霊山氏は病気療養中二十二日午前零時五分自宅で死去した、享年七十七、告別式は来る二十四日午後二時から三時まで小石川区関口町養国寺で行はれる、翁は福島県の出身、詩書画の大家として知られてゐた」[11]

政治家や文人との交流

霊山の逝去を記す記事[12]内の「後藤新平伯東道九州各地に游屐す」[13]や「小室畫伯を東道して支那全道を漫遊」という記述、『後藤新平書翰集』所収の来翰、『支那の風俗』[14]などからもうかがえるように、後藤新平伊藤博文堺利彦小室翠雲中村不折香川敬三後藤朝太郎、岩崎鏡川[15]江木衷久保天随[16][17]犬養毅[18]、高希舜[19]、汪亞塵、近衛篤麿湯化竜をはじめとする、諸分野で活躍する人々との面識や交流があった。

後藤新平と霊山は明治後期に警官練習所での勤務時期が一部重なっている。高橋(1967)によれば霊山は「後藤新平に可愛がられ、政界出馬を再三すすめられたが辞退」した。『後藤新平書翰集』には霊山からの八通の書簡(内容は児玉源太郎の逝去、後藤の欧米視察旅行、漢詩の注釈、揮毫依頼、前田黙鳳の義弟の紹介状など)が収録されている。後藤新平はまた霊山の明治42年(1909年)の著書『大筥根山』の巻頭に漢詩を寄せ「為霊山詞兄/題箱根遊記/新平」と署名している[20]ほか、霊山の著書のうちのいくつか(『李太白詩集:選註』など)の題字を揮毫している。

内藤湖南漢詩文集』には井土霊山に送られた漢詩「次韻送井土靈山之東京」が含まれており、関西大学図書館の「内藤文庫」には「井土經重」の書簡十通が所蔵されている。霊山の『実業新聞』での記者時代には同紙で堺利彦も働いていた(『堺利彦伝』第四期には霊山が数箇所で登場する)。山本悌二郎は霊山が「気の毒な生活を送っていることを河井荃廬氏から聞いて」霊山を(著述に参加させた)『澄懐堂書画目録』が「完成するまで親切に扶養」したという[21]。主筆を務めた『やまと新聞』には小室翠雲がおり、大正9年(1920年)には小室と中国を漫遊した。小室翠雲は霊山の臨終の際にも枕頭に侍し、その臨終を写している。(「本会顧問井土靈山先生逝く」『南画鑑賞』、昭和10年)また『大筥根山』は中村不折が表紙画を担当している。1921年には呉昌碩が霊山を訪問している[22]。1916年3月3日には土田政次郎の招待で結城蓄堂の案内で町田の香雪園に三浦英蘭、有澤紅舟、大町桂月などと遊ぶ[23]


  1. ^ 中村城下の上川原町(現在の相馬市中村字川原町)の和田家屋敷で生まれ、明治四年和田家の原町への土着に伴い原町へ。和田祥重は帰農し『農業要録』を著している。
  2. ^ 家紋は「丸に細桜」。辻花子[他](2002: 84-85)によればその祖先は「筑前秋月藩士 井土 七郎右衛門源秋」。井土(2019: 33)によれば「井土七朗源義」。『あさくら物語』399-400ページによれば、秋月藩の江戸藩邸には士分としては御構頭取、江戸御留守居、定府足軽頭が一名ずつ置かれていたので、その何れかの役であったかもしれない。
  3. ^ 若松丈太郎(2002)によれば「おそらく首席で卒業した」。
  4. ^ 明治十三年雑記綴学務課(宮城県図書館公文書館蔵)
  5. ^ 「井土靈山の生涯と事績」(2019)
  6. ^ 明治32年(1899年)には岡山県の郷土雑誌である『花の土産』(能仁婦人会による出版)に「井土霊山君を訪ふ(富海臥雲)」なる記事が載っていることから、明治末までには岡山に居を移していたのかもしれない。
  7. ^ 「三十五年十月七日から、第二面の下欄に「硯滴」欄を創設した。文章は口語体、社説とは趣きを異にした短評で、初期の執筆者は井土霊山氏であった。井土氏は通信部部員で漢詩人であった。」(『毎日新聞七十年』81頁)
  8. ^ 井土靈山(1911ab)
  9. ^ 朝日新聞1896年12月1日東京版朝刊
  10. ^ 国民新聞1896年9月6日
  11. ^ 東京朝日新聞1935年7月23日東京版夕刊
  12. ^ 「本会顧問井土靈山先生逝く」『南画鑑賞』、昭和10年
  13. ^ 後藤1910年10月の九州訪問時か。
  14. ^ 後藤朝太郎(1923: 6, 133)
  15. ^ 井土靈山(1911c)
  16. ^ 十一月五日原田恕堂招飲同井土靈山、澁谷越山
  17. ^ 與藤波千谿、井土靈山飲次千谿詩韻
  18. ^ 井土靈山(1925)
  19. ^ 朱京生「尘封在档案里的历史与人生(上)——高希舜的交游与南京美术专科学校的创办」『荣宝斋』 2015年第12期248-259
  20. ^ これに対し霊山は「例言」で「逓信大臣男爵後藤新平君は箱根遊記に題するに詩を以てせられ」と記している。
  21. ^ 杉村邦彦(1996)
  22. ^ 松村茂樹(2016)
  23. ^ 読売新聞1916年3月5日朝刊5ページ


「井土霊山」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「井土霊山」の関連用語

井土霊山のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



井土霊山のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの井土霊山 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS