ロベール・ブレッソン
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ロベール・ブレッソン Robert Bresson | |||||||||||||||||||||||||
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生年月日 | 1901年9月25日 | ||||||||||||||||||||||||
没年月日 | 1999年12月18日(98歳没) | ||||||||||||||||||||||||
出生地 | フランス共和国 ブロモン=ラモト | ||||||||||||||||||||||||
死没地 | フランス パリ | ||||||||||||||||||||||||
職業 | 映画監督、脚本家 | ||||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||||
『抵抗(レジスタンス) -死刑囚の手記より-』 『スリ』 『バルタザールどこへ行く』 『ラルジャン』 | |||||||||||||||||||||||||
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来歴・人物
1901年9月25日、フランス・ピュイ=ド=ドーム県ブロモン=ラモトで生まれる。
映画監督になる前は画家、写真家として活躍した後、数本の作品に助監督、脚本家として参加。1934年中篇『公共問題』で監督デビューするものの仕上がりが気に食わずすべて廃棄処分にしてしまう。その後、第二次世界大戦に従軍するもののドイツ軍の捕虜となってしまい、その収容先で知り合った司祭より映画の制作を依頼され、終戦後に『罪の天使たち』を制作[要出典]、この時点でのちの職業俳優を一切使わないブレッソン流の演出を確立。『ブーローニュの森の貴婦人たち』の制作後にジャン・コクトーらとともに、後の「カイエ・デュ・シネマ」の母体とも言うべき組織「オブジェクティフ49」を創設するも、後に袂を分かつ。その後、1950年の『田舎司祭の日記』以降は寡作ながらも世界三大映画祭で受賞を重ねていく。
1983年の『ラルジャン』以降、体調不良もあり作品を撮れず、結果として本作が遺作となった。
1995年、第二回ルネ・クレール賞受賞。1999年12月18日、パリで死去。98歳没。
著名な写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンと血縁関係はない。
スタイル
ブレッソンは芝居がかった演技を嫌い、初期の作品を除き出演者にはプロの俳優の人工的な演技行為の意味や感情をあらわすことをひどく嫌ったため、その作品限りの素人ばかりを採用[1]し、出演者を「モデル」と呼んだ。音楽はほとんど使用せず、感情表現をも抑えた作風を貫くなど、独自の戒律に基づいた厳しい作風が特徴[2]。そうした自らの作品群を「映画」とは呼ばずに「シネマトグラフ」と総称した。素人として参加した出演者の中には(マリカ・グリーン、フランソワ・ルテリエ、ドミニク・サンダ、アンヌ・ヴィアゼムスキー)等、そのまま映画界に留まる者もいる。
ブレッソンは『湖のランスロ』の制作にあたってフランス中世のクレティアン・ド・トロワの『ランスロまたは荷車の騎士』や『散文ランスロ』等、「様々な作品の諸要素を参照しているが、最終的には自由な立場で独自の物語を作り上げた」。その際「アーサー王伝説から超自然的な要素を取り除いた」。「映画は聖杯の探索が失敗に終わった後の物語を語り、円卓の騎士たちの間に不穏な空気が広がっていき、最後にはカムランの戦いで騎士たちが次々と倒れて死ぬ」。「物語の展開の中心をなすのは、ランスロとグニエーブル妃の不倫及び円卓の騎士モルドレッド(Mordred)の嫉妬と裏切りである」[3]。
フィルモグラフィー
タイトル/原題 | 年 | 監督 | 脚本 | 原作 | スタッフ/備考 |
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C'était un musicien | 1933年 | モーリス・グレーズ、フリードリッヒ・ツェルニック | ダイアローグ/ブレッソン | ||
Les Affaires publiques |
公共問題1934年 | ブレッソン | ブレッソン | 短篇 | |
Les Jumeaux de Brighton | 1936年 | クロード・エイマン | ブレッソン | ||
Courrier Sud |
南方飛行1937年 | ピエール・ビヨン | サン=テグジュペリ | サン=テグジュペリ 『南方郵便機』 |
コンテ/ブレッソン |
罪の天使たち Les Anges du péché |
1943年 | ブレッソン | ブレッソン | 長編デビュー作 | |
Les Dames du Bois de Boulogne |
ブローニュの森の貴婦人たち1945年 | ブレッソン | ブレッソン | ドニ・ディドロ | ダイアローグ/ジャン・コクトー |
Journal d'un curé de campagne |
田舎司祭の日記1950年 | ブレッソン | ブレッソン | ジョルジュ・ベルナノス | ルイ・デリュック賞受賞 |
Un condamné à mort s'est échappé ou le vent souffle où il veut |
抵抗 (レジスタンス) - 死刑囚の手記より1956年 | ブレッソン | ブレッソン | アンドレ・ドヴィニ | DVD題『抵抗 死刑囚は逃げた』、原題『死刑囚は逃げた、あるいは風は己の望む所に吹く』 |
スリ Pickpocket |
1959年 | ブレッソン | ブレッソン | ドストエフスキー | |
ジャンヌ・ダルク裁判 Procès de Jeanne d'Arc |
1962年 | ブレッソン | ブレッソン | 助監督/ユーゴ・サンチャゴ | |
バルタザールどこへ行く Au hasard Balthazar |
1966年 | ブレッソン | ブレッソン | 助監督/クロード・ミレール | |
少女ムシェット Mouchette |
1967年 | ブレッソン | ブレッソン | ジョルジュ・ベルナノス | |
やさしい女 Une femme douce |
1969年 | ブレッソン | ブレッソン | ドストエフスキー | 撮影/ギスラン・クロケ |
Quatre nuits d'un rêveur |
白夜1971年 | ブレッソン | ブレッソン | ドストエフスキー | |
湖のランスロ Lancelot du Lac |
1974年 | ブレッソン | ブレッソン | クレティアン・ド・トロワ | |
たぶん悪魔が Le Diable probablement |
1977年 | ブレッソン | ブレッソン | ||
ラルジャン L'Argent |
1983年 | ブレッソン | ブレッソン | トルストイ |
- ^ 中条省平『フランス映画史の誘惑』(集英社新書 2003年p.152)。
- ^ 中条省平は「そうした徹底して禁欲的な映画作りは、運命(神の意図)は絶対に不可知であるがゆえに逆に「すべては恩寵である」(『田舎司祭の日記』)という考えかたとふかく結びついています。それはいわば極端な汎神論の逆説的なあらわれであり、それによって、象徴なき象徴主義とでも呼びたくなるような厳密な美の世界を結晶させています」という(『フランス映画史の誘惑』p.153)。
- ^ 伊藤洋司「『湖のランスロ』――ロベール・ブレッソンの映画における恋愛、運動、死――」渡邉浩司編著『アーサー王伝説研究 中世から現代まで』(中央大学出版部 2019)pp.403-405.
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