ロベール・ブレッソン ロベール・ブレッソンの概要

ロベール・ブレッソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 13:43 UTC 版)

ロベール・ブレッソン
Robert Bresson
生年月日 (1901-09-25) 1901年9月25日
没年月日 (1999-12-18) 1999年12月18日(98歳没)
出生地 フランス共和国 ブロモン=ラモト
死没地 フランス パリ
職業 映画監督脚本家
主な作品
『抵抗(レジスタンス) -死刑囚の手記より-』
スリ
バルタザールどこへ行く
ラルジャン
 
受賞
カンヌ国際映画祭
監督賞
1957年『抵抗 -死刑囚の手記より-』
監督創造大賞
1983年ラルジャン
審査員特別賞
1962年ジャンヌ・ダルク裁判
国際映画批評家連盟賞
1974年湖のランスロ
国際カトリック映画事務局賞
1962年『ジャンヌ・ダルク裁判』
1967年少女ムシェット
ヴェネツィア国際映画祭
国際賞
1951年『田舎司祭の日記』
サン・ジョルジョ賞
1966年バルタザールどこへ行く
国際カトリック映画事務局賞
1951年『田舎司祭の日記』
1966年『バルタザールどこへ行く』
イタリア批評家賞
1951年『田舎司祭の日記』
栄誉金獅子賞
1989年
ベルリン国際映画祭
銀熊賞(審査員特別賞)
1977年『たぶん悪魔が』
国際カトリック映画事務局賞
1971年白夜
ヨーロッパ映画賞
生涯貢献賞
1994年
全米映画批評家協会賞
監督賞
1984年『ラルジャン』
その他の賞
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来歴・人物

1901年9月25日、フランス・ピュイ=ド=ドーム県ブロモン=ラモトで生まれる。

映画監督になる前は画家、写真家として活躍した後、数本の作品に助監督、脚本家として参加。1934年中篇『公共問題』で監督デビューするものの仕上がりが気に食わずすべて廃棄処分にしてしまう。その後、第二次世界大戦に従軍するもののドイツ軍の捕虜となってしまい、その収容先で知り合った司祭より映画の制作を依頼され、終戦後に『罪の天使たち』を制作[要出典]、この時点でのちの職業俳優を一切使わないブレッソン流の演出を確立。『ブーローニュの森の貴婦人たち』の制作後にジャン・コクトーらとともに、後の「カイエ・デュ・シネマ」の母体とも言うべき組織「オブジェクティフ49」を創設するも、後に袂を分かつ。その後、1950年の『田舎司祭の日記』以降は寡作ながらも世界三大映画祭で受賞を重ねていく。

1983年の『ラルジャン』以降、体調不良もあり作品を撮れず、結果として本作が遺作となった。

1995年、第二回ルネ・クレール賞受賞。1999年12月18日、パリで死去。98歳没。

著名な写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンと血縁関係はない。

スタイル

ブレッソンは芝居がかった演技を嫌い、初期の作品を除き出演者にはプロの俳優の人工的な演技行為の意味や感情をあらわすことをひどく嫌ったため、その作品限りの素人ばかりを採用[1]し、出演者を「モデル」と呼んだ。音楽はほとんど使用せず、感情表現をも抑えた作風を貫くなど、独自の戒律に基づいた厳しい作風が特徴[2]。そうした自らの作品群を「映画」とは呼ばずに「シネマトグラフ」と総称した。素人として参加した出演者の中には(マリカ・グリーン、フランソワ・ルテリエ、ドミニク・サンダアンヌ・ヴィアゼムスキー)等、そのまま映画界に留まる者もいる。

ブレッソンは『湖のランスロ』の制作にあたってフランス中世のクレティアン・ド・トロワの『ランスロまたは荷車の騎士』や『散文ランスロ』等、「様々な作品の諸要素を参照しているが、最終的には自由な立場で独自の物語を作り上げた」。その際「アーサー王伝説から超自然的な要素を取り除いた」。「映画は聖杯の探索が失敗に終わった後の物語を語り、円卓の騎士たちの間に不穏な空気が広がっていき、最後にはカムランの戦いで騎士たちが次々と倒れて死ぬ」。「物語の展開の中心をなすのは、ランスロとグニエーブル妃の不倫及び円卓の騎士モルドレッド(Mordred)の嫉妬と裏切りである」[3]

フィルモグラフィー

タイトル/原題 監督 脚本 原作 スタッフ/備考
C'était un musicien 1933年 モーリス・グレーズ、フリードリッヒ・ツェルニック ダイアローグ/ブレッソン
こうきよう/公共問題
Les Affaires publiques
1934年 ブレッソン ブレッソン 短篇
Les Jumeaux de Brighton 1936年 クロード・エイマン ブレッソン
なんほうひ/南方飛行
Courrier Sud
1937年 ピエール・ビヨン サン=テグジュペリ サン=テグジュペリ
『南方郵便機』
コンテ/ブレッソン
つみのてん/罪の天使たち
Les Anges du péché
1943年 ブレッソン ブレッソン 長編デビュー作
ふろおにゆ/ブローニュの森の貴婦人たち
Les Dames du Bois de Boulogne
1945年 ブレッソン ブレッソン ドニ・ディドロ ダイアローグ/ジャン・コクトー
いなかしさ/田舎司祭の日記
Journal d'un curé de campagne
1950年 ブレッソン ブレッソン ジョルジュ・ベルナノス ルイ・デリュック賞受賞
ていこう/抵抗 (レジスタンス) - 死刑囚の手記より
Un condamné à mort s'est échappé ou le vent souffle où il veut
1956年 ブレッソン ブレッソン アンドレ・ドヴィニ DVD題『抵抗 死刑囚は逃げた』、原題『死刑囚は逃げた、あるいは風は己の望む所に吹く』
すり/スリ
Pickpocket
1959年 ブレッソン ブレッソン ドストエフスキー
しやんぬた/ジャンヌ・ダルク裁判
Procès de Jeanne d'Arc
1962年 ブレッソン ブレッソン 助監督/ユーゴ・サンチャゴ
はるたさあ/バルタザールどこへ行く
Au hasard Balthazar
1966年 ブレッソン ブレッソン 助監督/クロード・ミレール
しようしよ/少女ムシェット
Mouchette
1967年 ブレッソン ブレッソン ジョルジュ・ベルナノス
やさしい女
Une femme douce
1969年 ブレッソン ブレッソン ドストエフスキー 撮影/ギスラン・クロケ
ひやくや/白夜
Quatre nuits d'un rêveur
1971年 ブレッソン ブレッソン ドストエフスキー
みすうみの/湖のランスロ
Lancelot du Lac
1974年 ブレッソン ブレッソン クレティアン・ド・トロワ
たぶん悪魔が
Le Diable probablement
1977年 ブレッソン ブレッソン
らるしやん/ラルジャン
L'Argent
1983年 ブレッソン ブレッソン トルストイ

  1. ^ 中条省平『フランス映画史の誘惑』(集英社新書 2003年p.152)。
  2. ^ 中条省平は「そうした徹底して禁欲的な映画作りは、運命(神の意図)は絶対に不可知であるがゆえに逆に「すべては恩寵である」(『田舎司祭の日記』)という考えかたとふかく結びついています。それはいわば極端な汎神論の逆説的なあらわれであり、それによって、象徴なき象徴主義とでも呼びたくなるような厳密な美の世界を結晶させています」という(『フランス映画史の誘惑』p.153)。
  3. ^ 伊藤洋司「『湖のランスロ』――ロベール・ブレッソンの映画における恋愛、運動、死――」渡邉浩司編著『アーサー王伝説研究 中世から現代まで』(中央大学出版部 2019)pp.403-405.


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