ビアトリクス・ポター 生涯

ビアトリクス・ポター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 21:14 UTC 版)

生涯

母親のヘレンと幼い頃のビアトリクス。父親のルパートによる撮影。

誕生

ヘレン・ビアトリクス・ポターは1866年7月28日に、ロンドンサウス・ケンジントン英語版、ボルトン・ガーデンズ2番地において、父ルパートと母ヘレンの長女として生まれた[1]。当時は産業革命が起こり、イギリスは世界の工場と呼ばれた時代であった[2]。ビアトリクスは、この時代に台頭してきた上位中産階級の裕福な家庭に生まれている[2]。父方の祖父であるエドマンドは世界最大のキャラコ捺染工場の経営者であり、国会議員にもなった人物であった[3]。母方の家系も木綿で財を成しており、ビアトリクスが生まれたころは5人の使用人を雇っており、さらに幼いビアトリクスのために新しく乳母ナース)を雇い入れている[4]。ビアトリクスのファーストネームは母親と同じヘレンであったため、彼女はセカンドネームのビアトリクスで呼ばれ、親しい者にはBと呼ばれていた[5]

父親のルパートは法廷弁護士の資格を取得していたが、弁護士としての仕事は一切せずに紳士クラブ英語版に通い、趣味に明け暮れる毎日であった[6][1]。父は当時実用になり始めた写真を趣味としており、このおかげで幼い頃のビアトリクスの写真も残されている[7]。また『オフィーリア』で著名な画家、ジョン・エヴァレット・ミレーとも親しくしており、ミレーのために背景用の風景写真やモデルの撮影を行っている[8]。ミレーが自身の孫を描いた『しゃぼん玉』はルパートの写真を参考に制作されている[9]。ビアトリクスは少女のころミレーに絵を見てもらったことがあり、ミレーはポターに対し「絵の描ける人間は多いが、あなたと私の息子ジョンには観察力がある」と評価している[10][11]

両親はともにキリスト神性を信じないユニテリアン派キリスト教徒であった[1]。そのためクリスマスは寂しくつまらないものであったようで、他家のクリスマスをうらやむ描写がポターの日記に存在する[12]。ロンドンにあった4階建ての生家は、第二次世界大戦のときに爆撃を受けたため破壊されてしまい、跡地にはバウスフィールド小学校 (Bousfield Primary School) が建っている[2][13]

少女時代

ビアトリクスは乳母と家庭教師(ガヴァネス)によって教育され、4階の子ども部屋から階下の両親に会いに来るのは特別なときか「おやすみなさい」を言うときだけであった。親が認めない子と遊ぶことも許されないため、ビアトリクスは弟のバートラム[注釈 2]が生まれる5歳までは、遊び相手が存在しなかった[1]。しかしこれは当時の中流階級の家庭では特段珍しいものではなかった[14]。良家の女児は学校へは行かず、家庭教師によって教育が行われることが一般的であり、ポターもまた例外ではなかった。一度も学校に通わなかったポターであったが、後年「学校に行かなくて良かった。行っていれば独自性が潰されてしまっていただろう」と述べており、学校に行けなかったことを後悔する節はない[15]。少女時代は飼っているペットを観察しスケッチに残すか、他の何かの絵を描いていることが多かった[16]。孤独で変化に乏しい毎日であったがポターは従順にそれを受け入れている。しかし、成長するにつれ抑圧された自我は吐け口を求め、15歳[注釈 3]から31歳まで独自の暗号を使った日記に日々のことを書き綴っている[21][22]。どこかに出かけた話や、誰かから聞いたジョーク、出会った人物の批評、時事問題などさまざまなことが記されており、非常に細かなところまで詳細に記されており、ポターが若い頃から鋭い観察眼を持った女性であったことがわかる[23][24]。この暗号日記はポターの死後10年以上も解読されずにいたが、1958年にレズリー・リンダーが解読に成功しており、それまで不明だったポターの若いころのことが一挙に明らかになっている[25][26]。日記の内容はわざわざ暗号にするほどのものではなく、なぜ暗号を使ったかについてはさまざまな考察があるが、猪熊葉子灰島かりは、抑圧された環境で自我を形成していく上で、秘密を持つことそのものが重要だったのではないかとしている[27][28]

湖水地方との出会い

1882年の避暑地として利用されたレイ・カースル

ポター家は毎年夏になるとスコットランドの避暑地へ行き、3か月から4か月ほど過ごしていた。しかし、1882年に避暑地のオーナーが変わり家賃を値上げしてきたため、新しい避暑地を探すこととなった。一家はスコットランドを諦め、イングランド北部の湖水地方ウィンダミア湖英語版の湖畔に建つレイ・カースル英語版という城のような大きな屋敷を借りることにした[29]。これが後にポターと深いつながりを持つ湖水地方との最初の出会いとなった。作家として、また自然保護運動家としてのポターに大きな影響を与えたハードウィック・ローンズリー英語版にもこの時に出会っている。社交的な父、ルパートは常に客と会話を楽しんでいたが、その中に地区の教区牧師英語版であったローンズリーもいた。ローンズリーは牧師をつとめるうちに湖水地方の美しい自然を愛するようになり、ナショナル・トラストの前身である湖水地方防衛協会を準備しているところであった[30]。18世紀に始まった産業革命が自然の破壊をもたらし、これに危機感を持った人々が自然を保護し次世代へ伝えようとする運動が起こり始めた時代であった[31]。ローンズリーも危機感を持った人間の一人で、鉄道の敷設や大型四輪馬車道路の建設などに反対運動を起こしていた[30]。ローンズリーが語る自然保護の理想にポターは賛同していった。父ルパートも大いに共感し、後の1895年にローンズリーらが設立したナショナル・トラストの第1号終身会員となっている[32]

生物の研究・観察

ポターは幼いころから自分の部屋でペットを飼い、動物たちを観察しスケッチに残してきた[18]。時には死んだ動物を解剖したり剥製にして骨格を観察することすらあった[33]。博物館に行き化石のスケッチも多く残したが、ポターが特に興味を惹かれたのは菌類、キノコであった[23]。当時のイギリスでは各家庭に顕微鏡が存在するほど、一般市民の間で博物学の大流行が起きていた。女性の高等教育はまだ一般的ではなく、ようやくその必要性が認められはじめた時代であったが、女性がキノコの観察やスケッチを行うのはそれほど珍しいことではなかった[34]。ポターはキノコの精緻なスケッチを描き続け、叔父にあたる化学者ヘンリー・ロスコーの計らいにより、ついにはキュー王立植物園で自由に観察・研究できるようになった。他の研究者もポターを歓迎していたが、ポターが胞子の培養に成功すると態度は突然冷たくなっていった[35]。アマチュアとしての研究ならば女性であっても認められていたが、大多数の専門家はポターのようなアマチュア研究者が自分たちの領域に入り込むことを疎ましく思っていた[36]。王立植物園から疎外されたポターは、ロスコーの勧めもあって1897年に「ハラタケ属の胞子発生について―ミス・ヘレン・B・ポター」と題した論文をロンドン・リンネ学会に提出した[37][38]。しかし女性が学会に参加することは認められず、論文は植物園副園長が代理で読み上げた。一説にはタイトルだけしか読み上げられなかったともいわれている[39][35]。ポターは日記にその無念さを書き残している[40]。ポターはその後もキノコの研究を続けたが、やがて研究からは遠ざかっていった[41]。『ピーターラビットの野帳[注釈 4]』の著者、アン・スチーブンソン・ホッブスは1900年以降にはキノコがスケッチにほとんど登場していないと指摘している[42]。もし、こうした事件が起こらなければポターは研究者として名を残したかもしれず、ピーターラビットも生まれなかったという者もいる[43]。彼女が残した絵は、死後の1967年に発行された『路傍と森林の菌類 (Wayside and woodland Fungi) [注釈 5]』に挿画として使われている[44]。1997年の4月にリンネ学会は、性差別があったことを公式に謝罪した[45]

絵本作家

1901年に発行された私家版『ピーターラビットのおはなし』

ポターが自身の作品で初めて収入を得たのは、ポターがまだキノコに夢中になっているころの1890年であった[37]。印刷機の購入資金について難儀していたポターは叔父のロスコーに相談し、親族らに贈っていたクリスマスカードを販売するよう助言を受けた。ポターは、ベンジャミン・バウンサー(ベンジャミン・バニー)と名づけたペットのベルギーウサギをモデルに6枚のカードをデザインした[46]。出版社に持ち込んだ絵は1社には断られたものの、次の出版社はポターのイラストにその場で6ポンドを支払った[47]。結局ポターの作品はクリスマスと新年用のカード、それとフレデリック・ウェザリー英語版の詩集『幸せな二人づれ (A Happy Pair) 』の挿絵として使われた[48]。ポターはこの結果を喜び、モデルとなってくれたベンジャミンに麻の実をカップ一杯与えている[49]

自信をつけたポターは出版社数社にスケッチや小型本を送ったが、これは出版には至らなかった[50]。ポターの最初の本『ピーターラビットのおはなし』は子どもに宛てた手紙がきっかけとなって出版された。ポターは自分の元家庭教師アニー・ムーア(旧姓カーター)とその家族と親しくしており、たびたびムーア家の子どもたちに絵手紙を送っていた。1893年9月4日にはアニーの5歳の男の子ノエルにウサギの話を送っている[51]

ノエル君、あなたになにを書いたらいいのかわからないので、四匹の小さいウサギのお話をしましょう。四匹の名前はフロプシーに、モプシーに、カトンテールに、ピーターでした……[52] — ヘレン・ビアトリクス・ポター

ポターはアニーの勧めもあり、これらの話を本として出版することに決め、親しくしていたローンズリーに出版について相談した[53]。ローンズリーは詩作などの創作活動も行っていたことから出版社に顔が広く、ポターの作品は彼が紹介した出版社、少なくとも6社に持ち込まれた[1][54]。ポターは小型本での発行を望み、また子どもが購入できるよう安価にしたいと考えていたが、それは出版社の望むところではなく、出版の承諾はひとつたりとも得られなかった[注釈 6][56]。ポターは自費出版することに決め、1901年12月16日に初版250部が完成した[54]。完成した『ピーターラビットのおはなし (The Tale of Peter Rabbit) 』は知人や親戚にクリスマスプレゼントとして贈り、残ったものは1冊1シリングに郵送料を加えた価格で販売した[57]。この小さな本は評判となり1、2週間で売切れてしまった。購入者にはアーサー・コナン・ドイルもおり、内容について高い評価を与えている[58]。追加で200部が増刷され、その後一部語句を改め表紙の色を変えた1902年2月版を発行した[59]

ローンズリーはこの間、商業的に出版できる会社を探し出そうとしており、ポターの散文を自身の韻文に改めて出版社に持ち込んでいた。ローンズリーの持ち込んだフレデリック・ウォーン社は絵本作家のレズリー・ブルック英語版[注釈 7]に相談し、「成功間違いなし」との返答を得ると、『ピーターラビットのおはなし』の出版を引き受けることとなった[60]。ただし韻文から散文に戻すことと、挿絵を30点に絞り全てカラーにすることが条件であった[61]1902年10月2日、『ピーターラビットのおはなし』の初版8,000部が発行された。初版は1シリングの厚紙装丁版と1シリング6ペンスのクロース装丁版が存在した。8,000部は予約で売り切れ、年内に2度増刷し、1903年末までには5万部を売り上げる結果となった[62]。ウォーン社はアメリカで出版する際に版権を取らなかったため、1904年には海賊版が出回る事態となっている[61]

ポターはアニーの別の子どもに、仕立て屋の話をクリスマスプレゼントとして贈っていた。ポターはこの話も本にすることに決めたが、まだ『ピーターラビットのおはなし』の結果が出ていないことと、自分の望む形の内容で出版したかったことから、またも自費出版で出すことに決めた[63]。1902年5月に『グロースターの仕たて屋』は500部印刷された[64]。ウォーン社は内容に少し手を加え、第3作目の『りすのナトキンのおはなし』とともに1903年に出版した。これ以降、およそ年に2冊の割合でポターの作品がウォーン社から出版されるようになる[65]

ノーマン・ウォーン

フレデリック・ウォーン社は創業者の息子3人によって経営される家族経営の会社であった[66]。ポターと連絡を取り合っていたのは一番下のノーマン・ウォーンであった。ノーマンとは毎日のように手紙のやり取りを交わしており、ウォーン社にもたびたび出向いていたため、ポターはウォーン家と親しくなっていった[67]。ポターにとって実家は窮屈で居心地が良くなかったこともウォーン家に親しみを感じる一因となった[68]。次第にポターとノーマンはお互いに惹かれあうようになり、ノーマンが営業で会社を離れているときは、ポターはウォーン社とまともに連絡を取り合おうとしない有様だった[69]。二人の親密さは深まる一方であったがポターの母ヘレンは快く思ってはいなかった。『2ひきのわるいねずみのおはなし』に登場する人形の家をスケッチするため、ノーマンとポターは2人で出かけることを計画したが、ポターの母親は2人だけの外出を許そうとはせず、結局スケッチは写真を見て行うことになった[70]。母親の束縛に落胆するポターであったが、本の売れ行きは順調であったのでいつか自立できるに違いないと将来を明るく考えてもいた[71]

1905年7月25日ノーマンからポターへ結婚を申し込む手紙が届いた。無論ポターはこのプロポーズを喜んだが、ポターの両親の反応は全く違うものであった[72]。両親は自分たちの娘が商売人と結婚するようなことを認めなかった。自分たちの先祖も商人であったにもかかわらず、家の格が違うことを気にしたのである[67]。しかし、ポターも当時39歳であり決意も固く、両親の反対を押し切りプロポーズを受けることにした。ただし両親が条件として出した「婚約のことはごく限られたものだけにしか知らせず、ノーマンの兄弟にも知らせない」という約束を守らねばならなかった[73]。ところがプロポーズの手紙から1か月後の8月25日、ノーマンはリンパ性白血病[注釈 8]のため37歳でこの世を去った。ポターは悲しみに暮れたが秘密の婚約であったため、誰にもその胸の内を明かすことはできなかった[70][75]

湖水地方生活

ニア・ソーリーのヒル・トップ農場

フィアンセを失ったポターであったが、思い切って湖水地方ニア・ソーリーにあるヒル・トップの農場を購入することに決めた。以前に湖水地方に来たときからニア・ソーリーを気に入っており、いつか物件を購入したいと願っていたのである[65]。また当時の日記には、農場での仕事がノーマンの死の悲しみを癒してくれると記されている[76]。このころの作品には湖水地方に実在する建物や人物がたびたび登場する[77]。『こねこのトムのおはなし』ではヒル・トップの家や庭が舞台となっている[78]。絵本は順調に売り上げを伸ばし印税収入も着実に増えてくると、ポターはナショナル・トラストを支援するため湖水地方の土地や建物を購入していった[79]。不動産の購入だけでなく、水上飛行機の飛行場ができるという噂が立ったときは、抗議文を雑誌へ投稿したり、建設反対の署名運動も行っている[80]。こうした自然保護活動のために購入した土地や建物が増えると、その管理には弁護士が必要となりポターはウィリアム・ヒーリスという弁護士に売買契約や諸手続きを依頼することにした[81]。ヒーリスはポターの自然保護運動に共感し、不動産取引のやり取りが増えるにつれ二人の仲は深まり、ついに1912年6月ヒーリスはポターに結婚を申し込んだ[81]。結婚について聞かされたポターの両親はまたしても格の違いを理由に結婚に反対した。このときポターは46歳であった。困り果てたポターを救ったのは弟のバートラムであった。スコットランドで農夫として生活していたバートラムは実は11年前に結婚しており、それを初めて家族に打ち明けたのであった[82]。娘の結婚に対する反対はやがて弱まり、1913年10月15日にウィリアム・ヒーリスとビアトリクス・ポターはロンドンにあるセント・メアリー・アボット教区教会英語版で結婚式を挙げた[83]

結婚の慌しい時期に作られたのが『こぶたのピグリン・ブランドのおはなし』である[84]。この作品はポターには珍しく男女の愛が描かれた作品となっており、ポターは友人への手紙でこの作品のモデルは私たちではないと、わざわざ断りを入れている[85]。しかしながら多くのものはこの作品をポターの幸せな日々と重ねて見ている[86][87][88][89]

ビアトリクスの結婚から1年も経たない、1914年5月8日に父のルパートが亡くなった。父親は癌に罹患しポターは見舞いのため4か月間で8度も実家とニア・ソーリーを往復している。残された母親のため、ポターはニア・ソーリーに新たに家を借り入れている[90]。また、4年後の1918年には最愛の弟バートラムが農作業中に脳溢血で死去している。ポターはこの悲しみをローンズリーに手紙でつづっている[91]

創作活動

ポターとウォーン社とのやり取りは続いており、ノーマンの代わりに一番上の兄弟ハロルドがポターを担当していた[92]。ハロルドとは作中の言葉をめぐって対立するなどノーマンほどの信頼関係は築けず、またウォーン社から金銭の支払いが滞ることがたびたび起こっていた[93][94]。 支払いが滞っている原因はハロルドにあった。彼はウォーン社とは別に漁業会社も受け継いでおり、その運営のためにウォーン社の資金が流用されていた。ハロルドは資金調達のために詐欺も働いており、1917年に偽造罪で逮捕され出版業から追放されてしまった。ウォーン社の経営は次男のフルーイングがとることとなったが、ウォーン社は今にも倒産の危機にあった[95]。ポターは『アプリィ・ダプリィのわらべうた』『こねこのトムのぬりえ帖』を提供し、ウォーン社の再建を手助けしている[96]

ポターはニア・ソーリーでの農村生活を楽しむ一方、創作活動への情熱は失われつつあった[97]。理由のひとつには目が悪くなったこともあった。ニア・ソーリーに電気が通ったのは1933年のことで、それまでポターは目に負担のかかるロウソクやランプの明かりで制作を行っていた[98][99]。また、農場経営にやりがいを見出したのも理由の一つであったかもしれない[100]。そのような中、ニューヨーク公共図書館の児童図書責任者であり、児童文学評論家でもあるアン・キャロル・ムーアの来訪はポターを喜ばせた。ポターの作品は売り上げこそ良かったものの、その文学的評価はイギリスではまだ高くなく、権威ある立場のムーアが評価してくれたことはポターにとって大きな喜びと創作活動への刺激となった。新しいアメリカの友人ムーアとの出会いは『セシリ・パセリのわらべうた』の制作再開へとつながり、この本は1922年に出版された[101]

1929年には、ポターはアメリカの出版社デイヴィッド・マケイの要請に応えて『妖精のキャラバン』を出版した。蚊帳の外に置かれたウォーン社は不満を募らせ、次回作の『こぶたのロビンソン』はアメリカ・イギリス両方で発売されることになった[102]。1932年には『妹アン』がまたアメリカのみで出版されたが、挿画はキャサリン・スタージスが担当した。この作品はポター自身も子ども向きとは思っておらず、友人のアン・キャロル・ムーアも手厳しく批評している[103]。この年の冬に母親のヘレンが93歳で亡くなっている[104]

農場経営者

雌のハードウィック種

1924年には2,000エーカー以上の広さを持つ大農場トラウトベック・パーク英語版を購入した。ポターはこれ以外にもニア・ソーリーに3つの農場を所有しておりこの地方の大地主となった[105]。ポターはトム・ストーリーという羊飼いを雇い、1927年にヒル・トップ農場の管理と品評会に出すヒツジの世話を行わせた[106]。ヒル・トップの農場には湖水地方原産のハードウィック種英語版が飼育されていた。ハードウィック種は個体数が減少しており、それを憂慮したローンズリーは1899年に「ハードウィック種綿羊飼育者協会」を設立し、保護に努めていた。ローンズリーを敬愛していたポターもハードウィック種の保護、育成に取り組んでいった[107]。品評会では毎年数々の賞を勝ち取り、後の1943年にポターは「ハードウィック種綿羊飼育者協会」の次期会長に選出されている。ポターは就任前に死去してしまったが就任していれば初めての女性会長となっていた[4][108]

晩年

ポターは小さな頃から体が弱く、20代にはリウマチも患っていた。心臓も弱く晩年には「少女のころにリューマチ熱を患ってから、私の心臓は、一度も正常だったためしがないのです」と述べている[109]。1938年には10日間入院することになり、その3か月後には子宮摘出の手術を受けている[110]。術後の経過は順調で、ガールズガイドに77歳の誕生日を祝ってもらうこともあったが[111]、1943年の11月からは気管支炎にかかり病床に臥した[112]。1943年12月22日、死期が近いことを知ったポターはトム・ストーリーを呼びつけ、自分が死んだ後のことを託した。ポターはその晩に亡くなった。遺灰はポターの遺言どおりにストーリーがヒル・トップの丘に散骨した[113]

ポターの財産のほとんどは夫のウィリアムに残され、フレデリック・ウォーン社の株はノーマンの甥、フレデリック・ウォーン・スティーブンズに遺贈された。ポターの著作権や印税もウィリアムの死後は彼に譲られることになった。湖水地方の4000エーカー以上の土地と15の農場、そして建物はナショナル・トラストに寄贈された。ポターが初めて購入し、もっとも大事にしていた場所ヒル・トップは現状を維持し貸し出しをしないよう言い残している[114]。散骨した場所はポターが秘密とすることを望んだため不明となっている[115]


注釈

  1. ^ 本記事に記載のあるビアトリクス・ポターの作品のうち、『ピーターラビットの絵本シリーズ』に含まれる作品のタイトル、およびその作品に登場する動物たちの名前の日本語表記は、すべて福音館書店版(2007)『ピーターラビット全おはなし集』に準拠する。
  2. ^ ウォルター・バートラム・ポター(1872 - 1918)。彼も姉と同様にファーストネームが叔父と同名であったため、セカンドネームのバートラムまたはバーティと呼ばれた[5]
  3. ^ 大和田(2005)および吉田(1994)によれば14歳からであるが[17][18]、吉田は訳書であるテイラー(2001)のあとがきでは15歳としている[19]。また初期から手馴れた筆跡であることから、もっと以前から練習していた可能性もある[20]
  4. ^ ビアトリクス・ポター 絵 ; アイリーン・ジェイ, メアリー・ノーブル, アン・スチーブンソン・ホッブス 文 著、塩野米松 訳『ピーターラビットの野帳』福音館書店、1999年。ISBN 4-8340-1582-3 
  5. ^ W P K Findlay; Beatrix Potter (1967). Wayside and woodland Fungi. Wayside and woodland series. Frederick Warne. ISBN 0723200084 
  6. ^ 小型本にこだわった理由として、三宅興子はポターのミニチュア趣味もあったのではないかとしている[55]
  7. ^ 代表作は『からすのジョーニーの庭』『金のがちょうのほん』など。
  8. ^ 『イギリスを旅する35章』のように悪性貧血とされる場合もある[74]
  9. ^ 日本語版には存在しない。
  10. ^ 1994年当時の為替相場は1ポンドおよそ156円[179]
  11. ^ 『ピーターラビットのおはなし』では最後にカミツレの煎じ薬(英語ではカモミールティー)を飲ませているが、これはピーターの体調が悪かったためでお仕置きではない。しかし、このくだりの印象は非常に強く、英語圏の読者には大人になってもカモミールティーが飲めない人がいるという[213]
  12. ^ 当時の典型的な服飾についてはヴィクトリア朝の服飾を参照
  13. ^ 1908年に『ねこまきだんご (The Roly-Poly Pudding) 』として出版され、1926年に『ひげのサムエルのおはなし (The Tale of Samuel Whiskers) 』へと改題された[236]
  14. ^ 日本ではピーターラビットの絵本シリーズに含まれる[237]

出典

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