ソビエツキー・ソユーズ級戦艦 建造

ソビエツキー・ソユーズ級戦艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/18 23:16 UTC 版)

建造

開発

ロシア革命ロシア内戦ののち、新生ソ連海軍に残っていた戦艦は実質「セヴァストーポリ」級(「ガングート」級)の3隻だけであった。そのため、1934年頃からアメリカ合衆国国内での建造を考えていた時期もあった。

1936年5月に成立した艦隊整備計画(「大艦隊建造計画」)によって、戦艦15隻、重巡洋艦16隻を中心とする艦隊を1946年までに国内で建造することになった[1]。しかしこの計画は、実行前の1938年には早くも改訂作業が行われ、1939年に承認された艦隊整備計画では、戦艦8隻、重巡洋艦4隻を中心とする艦隊を1947年までに建造すること、に下方修正された。

この計画に基づき、その中心となる戦列艦について、イタリアアンサルド社より設計案が提示され、1937年には対日戦備用としてアメリカ政府に対して主砲装甲と機関等についての技術援助と調達の約束を取り付け、ギブス&コックス社との話し合いに入った。しかし、米国でさえ保有していない45.7cm砲搭載、62,000tの戦艦を購入するという要求にはアメリカ政府も承諾せず、またギブス&コックス社への設計費用等の支払いが滞った為に米国との交渉は打ち切りになった。さらに、1936年から翌年にかけてのヨシフ・スターリン大粛清により、船舶設計局局長V・ブジェジンスキーや主力艦開発責任者V・リムスキーコルサコフなどの造船技師、エンジニアが逮捕・投獄された。新たにB・チリキンが設計責任者となり作業が進められた本級の設計は、1937年10月15日に完成した[1]

大艦隊建造計画は1938年の第三次五カ年計画の一環として纏められ、「ソビエツキー・ソユーズ」級は1939年6月13日にソ連人民科学委員会国防委員会で建造計画が承認された[1]。もっとも1番艦「ソビエツキー・ソユーズ」の建造は、既に1938年7月15日から始まっていた[1]

試験

ソ連建国以来、初の大型艦建造とあって、本級の艦形や兵装、装備には新たに開発されたものが多数導入された。そのため、これらの試験が開発時のみならず、1番艦の起工後も行われた[1]

機動力と航行能力の実験のために、艦形の10分の1スケールの実験船「KM-3」が建造された。水雷防御については、各部位で4分の1スケールの防御装甲が作られ実験が行われた。機関部は、性能検証と建造の参考にするために、燃料噴射器や混合器、蒸気発生器まで再現した実物大の模型が作られた。さらに、静粛性の高いベンチレーターや水密区画のベアリングの自動注油ポンプフロンガスを使用する冷蔵庫、ガス検知器や塩分計、水量計、トリム計、遠隔温度計が新たに開発された。主砲の配置や搭載する高角砲と機関砲の選定は、1938年にソ連海軍大学校で行われた射撃演習の成果が反映された。演習では、本級の主砲の配置、口径は海外の戦艦より優れているとされ、高角砲は85mmから105mm、機関砲は37mmが有効と結論付けられた[1]

艦形や兵装の検討に加えて、新たに開発され新型戦艦に搭載される装備の試験も既存の軍艦で行われた。主砲発射時の爆風が艦橋などの構造物、特に射撃指揮所と光学機器に与える影響は、戦艦「パリジスカヤ・コンムナ」とキーロフ級巡洋艦「キーロフ」で行われた。艦載機の電動ウインチカタパルトの試験は、重巡洋艦「クラースヌイ・カフカース」で行われた[1]

遅延する建造

計画ではソビエツキー・ソユーズ級は8隻が建造される予定となっていたが、同時に建造されたのは4隻に留まった。当時のソ連には、これら大型艦を建造できる造船所はレニングラード(現・サンクトペテルブルク)のオルジョニキーゼ工廠(第189工廠)のみで、ここでさえ船台に大形クレーンが無かった[1]。それ以外の工廠では、大型艦艇の建造作業を充分に遂行する能力も、図面類も不足していた[1]。そのため、戦艦を4隻も建造するためにオルジョニキーゼ工廠を延々と専有させることはできず、工廠を分散させる必要があったが、まずは各工廠を拡張しなければならなかった。また、全ての工廠に建造に必要な設備が揃っておらず、最も設備の充実した工廠(主にオルジョニキーゼ)で各部コンポーネントを建造した後に、他の工廠に輸送して改めて建造を続行するという過程が必要となった。

結局、1番艦「ソビエツキー・ソユーズ」はオルジョニキーゼ工廠で、1938年11月28日に2番艦「ソビエカヤ・ウクライナ」がニコラエフ(現・ムィコラーイウのマルティ南工廠(第198工廠)で起工され、翌1939年12月21日には3番艦「ソビエツカヤ・ベロルーシヤ」がモロトフスク(現・セヴェロドヴィンスク)の第402工廠で起工された。1940年3月21日には4番艦「ソビエツカヤ・ロシア」が3番艦と同じくモロトフスクの第402工廠で起工された。

建造開始後も、本級に必要な設備や資材の不足は解決しなかった。起工から半年以上経過した1939年初頭時点でも、1番艦の建造の進捗はわずか0.16%に過ぎず、建造が始まっていないも同然の状態だった[1]。1939年4月になって、ようやく作業図面や必要な金属の供給が始まり、オルジョニキーゼ工廠にも2基の大型クレーンが設置された[1]。膨大な量の造船用鉄鋼の生産が追いつかず、材料不足でたびたび工事が中断した上、装甲板の生産技術の不足から、複数回の設計変更が必要となった。1番艦の建造だけで1,203の工場が関わっており、造船能力の65%を要することから、他の船舶や工業用品も供給している工場に更なる負担を強いた[1]。しかも、ソ連の工業・造船界にはプロペラシャフトを始めとしてこの大きさの船舶を建造するために必要な技術力が不足しており、いくつかのコンポーネントを外国に発注せざるを得なかった。1939年には、スイスに発注した1隻分3基と予備1基のタービンが納入され、このうち3基が4番艦「ソビエツカヤ・ロシア」に搭載するためにモロトフスクに送られた。しかし、残り1基を元にタービンを国産化する予定だったにもかかわらず、製造を担当する工場は一向にタービンの完成品を製造することができなかった。挙句の果てに、3番艦「ソビエツカヤ・ベロルーシヤ」は使用するリベットの品質に問題が発生したため、起工直後に「資材の準備段階からのやり直しが必要である」として工事が中断された。

建造中断

建造計画は大幅な修正が必要となり、60ヶ月で建造して1943年から1944年にかけて竣工させる[1]という当初の予定は絶望的となった。4隻の建造費だけで1940年の国家予算の3分の1にも及び、建造の遅延や資材の浪費は看過できないものとなりつつあった[1]。このため、4隻全てを完成させることは困難であるとして、まずは1940年10月19日に「ソビエツカヤ・ベロルーシヤ」の建造中止が命令され、準備されていた資材はレニングラード防衛のための浮き砲台建設のために転用された。政府と赤軍は残る3隻の完成を目指したが、1941年6月に独ソ戦大祖国戦争)が勃発すると、掃海艇や揚陸艦の緊急配備計画の妨げになる[1]ほど、莫大な資源を必要とする大型艦の建造は見直さざるを得なくなった。1941年7月10日には残りの3隻の建造も中止となり、これら3隻は同年9月10日をもってソ連海軍船籍より一旦除外された。この時点で4隻の進捗は以下のとおりだった。

  • 1番艦 ソビエツキー・ソユーズ:工事完成度約21.2%
  • 2番艦 ソビエツカヤ・ウクライナ:工事完成度約18%
  • 3番艦 ソビエツカヤ・ベロルーシヤ:建造中止
  • 4番艦 ソビエツカヤ・ロシア:工事完成度約1%

建造中止

大戦の終結後、海軍は建造計画の再開を模索したが、ソビエツキー・ソユーズは戦争中に受けた砲爆撃の損傷と、レニングラード防衛のために主砲や鋼材が転用された[1]ことから、1945年の終戦時には工事完成度は19.5%に後退していた。より状態が深刻なのはソビエツカヤ・ウクライナで、ニコラエフが1941年8月にドイツ軍に占領された際に鹵獲されたが、ドイツ軍が要塞の防御強化のために艦首と艦尾を解体して鋼材として転用してしまった上、1944年3月17日の撤退時に船台の支柱を爆破したため、船台上で大きく傾いて復旧不能となっていた。

大戦で国家経済に大きな被害を受けたソ連には、戦艦のような莫大な国家資源を必要とするものを建造するような余裕はなく、また戦艦という存在自体の戦略的・戦術的価値が失われているとして、ソビエツキー・ソユーズ級戦艦の建造計画は放棄されることになった。この決定に従いソビエツカヤ・ウクライナとソビエツカヤ・ロシアは1947年3月27日付で建造の中止と解体が決定したものの、スターリンは最も工事が進行していたソビエツキー・ソユーズ1隻だけでも竣工させることを望んだため、1948年5月29日には建造の再開が決定されて改めて発注され、ソビエツカヤ・ロシア用のタービンを転用して完成させる計画とされた。しかし、翌年1949年4月には再度の建造中止が決定され、ソビエツキー・ソユーズも解体処分となった。

この後、ソビエツキー・ソユーズ級の設計を元に、装甲の増強と甲板の設計変更、電気溶接の多用などの中心とした拡大発展型である23NU設計戦列艦[1]、もしくは拡大改良型としたいくつかの戦艦の設計案が構想、もしくは検討されたが、実現に至ったものはなく、ソビエツキー・ソユーズ級はソ連海軍にとって最初で最後、かつ未完のまま終わった唯一の「ソ連海軍において設計され、実際に建造された戦艦」となった。

なお、ソビエツキー・ソユーズ級と共に大艦隊建造計画の中核となる予定であった重巡洋艦「クロンシュタット」級は、要求仕様が定まらずに二転三転し、最終的には基準排水量38,540t、30.5cm砲3連装3基9門装備の最大速力32ノットという「高速戦艦」として1939年11月に2隻が起工されたが、製造遅延が派生して工事が予定通りには進行せず、独ソ戦の勃発によって建造が中止され、後に未完成のまま解体された。


注釈

  1. ^ 作中のCIA報告書によれば1992年に改装が終了したとされており、重航空巡洋艦「アドミラル・クズネツォフ」やキエフ級航空母艦バクー」にも装備されたフェーズドアレイレーダー「スカイ・ウォッチ(マルス・パッサート)」やSA-N-9、対艦ミサイル16基を装備している他、描写はないが恐らくCIWSを搭載。
  2. ^ 作中では「ソヴィエツカヤ・ルーシ」。第二次日本海海戦直前のケネディ中佐の台詞より。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 編集部「幻の戦艦「ソヴィエツキー・ソユーズ」 ソ連専門誌が明らかにしたその素顔」『世界の艦船』447集(1992年3月号)海人社 P.146-149






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