ジェミニ計画
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発射機
タイタンIIはアトラスに替わる空軍の第二世代の大陸間弾道ミサイル (Inter Continental Ballistic Missile, ICBM) として、1962年に開発された。燃料と酸化剤にはアトラスでは液体酸素とケロシンが使用されていたが、タイタンでは四酸化二窒素とヒドラジンが採用された。これは混ぜ合わせただけで発火するという性質を持っているため、点火装置などの部品が不要になり、構造を簡素化することができた。また長期間の保管が可能になり、発射の手順も簡略化できた。唯一の弱点は、きわめて毒性が強いということであった。一方で初期のタイタンはポゴ振動が発生するという、人間を乗せて打ち上げるには深刻な問題を抱えていた。
ジェミニを打ち上げたタイタンには、ASC-15という独自の (独立した) 誘導コンピューターが搭載されていた。ジェミニ誘導コンピューターは重量が26.7キログラムで、サターンロケットに搭載されていた「サターン発射機デジタルコンピューター」ときわめて似ているものだった。
宇宙飛行士
16名の飛行士が、10の飛行に搭乗した。:
グループ | 飛行士 | 所属 | 飛行および地位 |
---|---|---|---|
飛行士グループ1 (マーキュリー計画経験者) |
ゴードン・クーパー | 空軍 | ジェミニ5号 船長 |
ガス・グリソム | ジェミニ3号 船長 | ||
ウォルター・シラー | 海軍 | ジェミニ6号 船長 | |
グループ2 (第二次選抜グループ) |
ニール・アームストロング | 民間人 | ジェミニ8号 船長 |
フランク・ボーマン | 空軍 | ジェミニ7号 船長 | |
ピート・コンラッド | 海軍 | ジェミニ5号 飛行士 | |
ジェミニ11号 船長 | |||
ジム・ラヴェル | 海軍 | ジェミニ7号 飛行士 | |
ジェミニ12号 船長 | |||
ジェームズ・マクディビット | 空軍 | ジェミニ4号 船長 | |
トーマス・スタッフォード | ジェミニ6A号 飛行士 | ||
ジェミニ9号 船長 | |||
エドワード・ホワイト | ジェミニ4号 飛行士 | ||
ジョン・ヤング | 海軍 | ジェミニ3号 飛行士 | |
ジェミニ10号 船長 | |||
グループ3 (第三次選抜グループ) |
バズ・オルドリン | 空軍 | ジェミニ12号 飛行士 |
ユージン・サーナン | 海軍 | ジェミニ9号 飛行士 | |
マイケル・コリンズ | 空軍 | ジェミニ10号 飛行士 | |
リチャード・ゴードン | 海軍 | ジェミニ11号 飛行士 | |
デイヴィッド・スコット | 空軍 | ジェミニ8号 飛行士 |
飛行士の選抜
ジェミニ計画における飛行士の選抜について最大の権限を持っていたのは、飛行士管理部長のドナルド・スレイトンだった。それぞれの飛行に本搭乗員と予備搭乗員を割り当て、予備搭乗員はその3つ後の飛行で本搭乗員になるという原則は、ジェミニ以降に確立した。スレイトンはまた最初の飛行任務を、マーキュリー・セブンで残っている4人の現役の飛行士、シェパード、グリソム、クーパー、シラーに与えるつもりだった (7人のうちジョン・グレンは1964年1月にNASAを退役していた。またマーキュリー・アトラス7号で、帰還の際に問題を発生させNASAの一部の上層部から非難されていたスコット・カーペンターは、海軍の海底居住実験SEALABに参加するために休職中で、1964年7月にオートバイ事故による怪我で任務を解かれた。スレイトン自身は心臓疾患が原因で地上任務に就いていた)。
1963年の後半、スレイトンはまずシェパードとスタッフォードをジェミニ3号の、マクディヴィットとホワイトを4号の、シラーとヤングを5号 (アジェナとの初のランデブーに成功することになる) の飛行士に任命した。3号の予備搭乗員はグリソムとボーマンで、彼らは初の長期宇宙滞在を目指す6号で飛行することになっていた。最後にコンラッドとラヴェルが4号の予備搭乗員に任命された。だがアジェナ標的衛星の開発の遅れにより、飛行士のローテーションに1回目の修正が必要となった。まずシラーとヤングが3号のシェパードとスタッフォードの予備搭乗員になり、同時に6号の飛行士に任命された。またグリソムとボーマンは、5号で長期宇宙滞在をすることになった。
2度目の修正は、シェパードが内耳の疾患であるメニエール病を煩ったことにより生じた。まずグリソムが3号の船長に異動になった。またスレイトンは、グリソムには性格的にヤングのほうが相性が良いと感じていたので、スタッフォードとヤングを入れ替えた。さらにクーパーを、長期滞在をする5号の船長にした。また性格的な相性の理由から、4号の予備搭乗員の船長だったコンラッドを5号の飛行士に、ボーマンを4号の予備船長に異動した。最後に彼はアームストロングとエリオット・シーを5号の予備搭乗員に任命した。3度目の修正は、スレイトンがシーは体力的にジェミニ8号の船外活動をやりこなせないと感じたことにより行われた。彼はシーを9号の本搭乗員の船長にし、スコットを8号の飛行士に、バセットを9号の飛行士にした。
4回目にして最後となる修正は、シーとバセットが訓練機の墜落事故で死亡したことにより行われた。両名が搭乗するT-38は、セントルイスのマクドネル社の建物に激突した。奇しくもそこでは、彼らが搭乗することになる9号の宇宙船が製造中であった。予備搭乗員だったスタッフォードとサーナンが、新たに9A号と名づけられた飛行の本搭乗員となり、10号の予備搭乗員だったラヴェルとオルドリンが9号の予備搭乗員になった。これにより、ラヴェルとオルドリンには12号の本搭乗員になる道が開けた。
アポロ1号の火災事故でガス・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーの3飛行士が死亡したことにより、この最終調整はアポロ計画における最初の7名の飛行士の選抜に影響を与えることになった。それはまた、この7名のうち誰が最初に月面に降り立つのかということを意味していた。
飛行計画
1964年から1965年にかけ、宇宙船システムと熱遮蔽板のテストのため2機の無人機が打ち上げられ、その後1965年から1966年にかけ10回の有人飛行が行われた。発射にはすべてタイタンIIロケットが使用された。ジェミニ計画における重要点は、以下の通りである。:
- 1965年6月3日、ジェミニ4号でエドワード・ホワイトがアメリカ初の船外活動 (宇宙遊泳) を行った。
- ジェミニ5号ではアポロ計画で最低限必要となる8日間の宇宙滞在をした。また初めて燃料電池が使用された。
- 1965年12月、ジェミニ6A号と7号がアメリカ初のランデブーを達成した。また7号は14日間の宇宙滞在をした。
- ジェミニ8号は無人のアジェナ標的衛星とのドッキングを達成した。
- 1966年9月、ジェミニ11号はアジェナ衛星のロケットを使用して高度1,369キロメートルに達した。この記録は、月飛行を除き、人間が搭乗する宇宙船が地球を周回した高度としては最高のもので、2014年現在に至るまで破られていない[13]。
- ジェミニ12号では、バズ・オルドリンが長時間の船外活動を行い、人間が生命に危機を及ぼすことなく宇宙空間で行動できることを実証した。
軌道上でランデブーを行うのは、簡単な操作ではない。ある宇宙船が、先行する他の宇宙船に追いつこうとしたとする。この場合単純に速度を上げたら、高度が上昇して地球を周回する速度が減少するため、結果的には逆に距離が離れてしまうことになる。正しい手順は、まず減速することである。すると低い軌道に移行して宇宙船の速度が増すため、他機に先行する。その後再び加速すれば、目標の衛星と同じ軌道に乗ることができる[14]。これらの手順を飛行士に訓練させるため、特殊なシミュレーターが作られた[15]。
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ジェミニ4号で宇宙遊泳をするエドワード・ホワイト。1965年6月
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ジェミニ6号と7号のランデブー。1965年12月
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ジェミニ8号から見たアジェナ衛星。このあと初のドッキングを行う。1966年3月
飛行リスト
飛行 | 発射機製造番号 | 船長 | 飛行士 | 日時 | 発射時間 | 期間 | |
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無人飛行 | |||||||
ジェミニ1号 | GLV-1 12556 | 1964年4月8日 - 4月12日 | 16:01 UTC | 03日23時間1 | |||
ジェミニ初飛行。宇宙船は大気圏再突入の際、意図的に破壊された。 1: 飛行任務を遂行した時間は4時間50分で、すべての任務は軌道を3周する間に達成された。宇宙船はその後3日と23時間にわたって宇宙に滞在した。 | |||||||
ジェミニ2号 | GLV-2 12557 | 1965年1月19日 | 14:03 UTC | 00日00時間 18分16秒 | |||
熱遮蔽板試験のための弾道飛行 | |||||||
有人飛行 | |||||||
ジェミニ3号 |
GLV-3 12558 | グリソム | ヤング | 1965年3月23日 | 14:24 UTC | 00日04時間 52分31秒 | |
ジェミニ初の有人飛行。軌道を3周 | |||||||
ジェミニ IV |
GLV-4 12559 | マクディヴィット | ホワイト | 1965年6月3日 - 6月7日 | 15:15 UTC | 04日01時間 56分12秒 | |
アメリカ初の船外活動。ホワイトが22分間にわたり「宇宙遊泳」を行う。 | |||||||
ジェミニ V |
GLV-5 12560 | クーパー | コンラッド | 1965年8月21日 - 8月29日 | 13:59 UTC | 07日22時間 55分14秒 | |
初の1週間以上にわたる宇宙滞在。電源に燃料電池を初めて使用。将来のランデブーに備え、誘導と航法のシステムを検証。軌道を120周する。 | |||||||
ジェミニ VII |
GLV-7 12562 | ボーマン | ラヴェル | 1965年12月4日 - 12月18日 | 19:30 UTC | 13日18時間 35分01秒 | |
ジェミニ6号はアジェナ衛星とドッキングをする予定だったが、アジェナの発射が失敗したため、代わりに7号が6号のランデブーの目標となった。7号の当初の目的は、人間が14日間にわたって宇宙に滞在できるかを検証することだった。 | |||||||
ジェミニ VI-A |
GLV-6 12561 | シラー | スタッフォード | 1965年12月15日 - 12月16日 | 13:37 UTC | 01日01時間 51分24秒 | |
ジェミニ7号との初のランデブー。91.44メートルから最短で30センチメートルの距離を保ったまま、5時間にわたって編隊飛行を行った。 | |||||||
ジェミニ VIII |
GLV-8 12563 | アームストロング | スコット | 1966年3月16日 - 3月17日 | 16:41 UTC | 00日10時間 41分26秒 | |
無人のアジェナ衛星との間で、他の宇宙船との初のドッキングを行う。結合している最中に宇宙船の姿勢制御用ロケットが故障し噴射を始めたため、機体が異常回転をした。ほとんど危機的な状況だったが、アームストロングはアジェナを切り離し、何とか回転を止めることができた。アメリカの宇宙開発において、初の緊急着陸を行った。 | |||||||
ジェミニ IX-A |
GLV-9 12564 | スタッフォード | サーナン | 1966年6月3日 - 6月6日 | 13:39 UTC | 03日00時間 20分50秒 | |
5月に発射される予定だったが、当初の目標だったアジェナ衛星の発射が失敗したため予定が遅れた。増強型のドッキング装置を搭載したアジェナとのドッキングを目指していたが、衛星の保護カバーが完全に分離されていなかったため達成できなかった。3種類の異なる方法のランデブーと2時間の船外活動を行い、軌道を44周した。 | |||||||
ジェミニ X |
GLV-10 12565 | ヤング | コリンズ | 1966年7月18日 – 7月21日 | 22:20 UTC | 02日22時間 46分39秒 | |
アジェナの推進ロケットを初めて使用。ジェミニ8号から続く3回目のアジェナとのランデブーも行う。コリンズは49分間にわたって宇宙船のハッチから身を乗り出し、また39分かけてアジェナから実験機器を回収した。軌道を43周。 | |||||||
ジェミニ XI |
GLV-11 12566 | コンラッド | ゴードン | 1966年9月12日 – 9月15日 | 14:42 UTC | 02日23時間 17分09秒 | |
1周目の軌道でランデブーとドッキングを行ったあと、アジェナの推進ロケットを使用し遠地点1,369キロメートル[13]に到達。ゴードンは宇宙船から2時間にわたって身を乗り出し、33分間の船外活動を行った。軌道を44周。 | |||||||
ジェミニ XII |
GLV-12 12567 | ラヴェル | オルドリン | 1966年11月11日 – 11月15日 | 20:46 UTC | 03日22時間 34分31秒 | |
ジェミニ最後の飛行。アジェナとの手動によるランデブーとドッキングを達成し、船外活動の間その状態を保ち続ける。オルドリンは5時間30分におよぶ船外活動の記録を達成。その間1回の宇宙遊泳と、宇宙船から身を乗り出す船外活動を2回行い、これ以前の飛行で発生した船外活動に関わる問題を解決した。軌道を59周。 |
注記
- ^ 1966年に有人軌道実験室の試験飛行のためにジェミニ2号を再発射させた際には、唯一タイタンIIではなくタイタンIIIC が使用された
- ^ ジェミニ3号までは新しい管制センターはまだ試験段階であったため、ケープ・ケネディにあるマーキュリー管制室が使用された。ヒューストンが使用されたのはジェミニ4号からで、このときはマーキュリー管制室はバックアップに使われた。ジェミニ5号から現在に至るまでは、宇宙船の管制はすべてヒューストンで行われている
- ^ パラグライダーを使用して着地させる要求は、1964年に却下された。
- ^ ジェミニが10回の飛行をしている間、ソ連は一度も有人宇宙飛行を行わなかった。また史上初の宇宙遊泳を達成したにもかかわらず、1969年1月まで船外活動が行われることはなかった。
引用
- ^ a b Lafleur, Claude (8 March 2010). "Costs of US piloted programs". The Space Review. 2012年2月18日閲覧。
- ^ a b c d Gainor (2001), pp. 93, 97–99.
- ^ a b Hacker & Grimwood (1977), pp. XV, 75.
- ^ Schwartz, John (2018年10月17日). “Why Does ‘First Man’ Say Gemini as ‘Geminee’? NASA Explains. Sorta.”. The New York Times 2018年11月6日閲覧。
- ^ Loff (2013).
- ^ a b Murray & Cox (1989), pp. 33–34.
- ^ Reguly (1965), p. 7.
- ^ Agle (1998).
- ^ Farmer & Hamblin (2004), pp. 51–54.
- ^ Gatland (1976), p. 42.
- ^ a b Dryden (1964), p. 362.
- ^ Tomayko (1988), pp. 10–19.
- ^ a b Dumoulin, Jim (25 August 2000), NASA Project Gemini-XI, 2010年4月12日閲覧。
- ^ "Orbital Rendezvous". Buzz Aldrin. 2011年10月9日閲覧。
- ^ "NASA, Project Gemini". NASA. 2004年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月14日閲覧。
- ^ Wilford, John Noble (July 1969). We Reach the Moon. New York: Bantam Books. p. 67.
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