シンザン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 06:53 UTC 版)
特徴・評価
身体面
- 現役時代の出走体重は456 - 472キログラム。体つきはずんぐりむっくりとし、松橋牧場の関係者や厩務員の中尾は揃って「平凡」という第一印象を抱いた[79][80]。前述のように武田も活躍するまでは素質を見抜けず、厩舎内でもそれほど期待はされていなかった。
- 気性は生来非常に落ち着いており、武田厩舎に入厩するために貨車で移送中にも暴れることはなく、添乗した人間の不手際で一晩中トランジスタラジオがかけられた状況下でも眠りを妨げられなかった[81]。またデビュー前の育成調教中に武田は松橋牧場から「人にぶつかっても小石が当たったぐらいにしか反応しない」と報告され[5]、デビュー後はじめて関東へ遠征したときにもまったく動揺を見せなかった[82]。
- 5歳の春に見習騎手を乗せたまま後ろ脚だけで立ち上がり、そのまま約50メートル歩行したことがある。通常、サラブレッドは後ろ2本の脚で立ち上がっても耐え切れずにすぐ降りてしまうため、シンザンの腰の力の強さを示す逸話となっている[83]。
- 調教では走らなかった。これについて武田はしばしば「シンザンはゼニのかかっていないときは走らん」とコメントした[84]。また大川慶次郎はこのことで調教の時計は実戦とはあまり関係がないのだと教えられたと述べている[85]。
- 尾形藤吉はシンザンがレース前に首を長く伸ばし、首と背中のラインが地面と平行になる格好を「サラブレッドの見本」と評した[86]。
走り
- レースではスタートの飛び出しが非常に強くスタートがうまく[87]、多くのレースで逃げ馬を後方から見る形で先行し、計ったようにゴール前で交わすレース運びをした。着差を大きく広げて勝ったことは少なく、レコード勝ちも一度もない。大川慶次郎は、このことから「着差は決して馬の能力のバロメーターにはならない」ことを教えられたと述べている[88]。中尾は「ハナ差でも勝ちは勝ち」と考える栗田の騎乗スタイルがシンザンのレース振りに影響していたと述べている[89]。
- ゴール板を過ぎるとすぐ止まる癖があった。武田はこれを「りこうな馬でムダっ走りしないことを知っていた」と評した[90]。
- シンザンが喫した4敗のうち3敗は平場オープン競走であった。大川慶次郎はそのときの優勝馬は「お義理にもA級馬とはいえない」馬であり、そんな相手に負けたのはそれらのレースを「馬の仕上げをするのに一回の調教では取れない太めが、レースに使うと三回調教をしたくらいに解消する」と公言していた武田が「調教代わり」に使ったからだとし、「レースを調教代わりに使う。ファンや評論家の立場からは腹が立ちます」と述べている[91]。
- 武田は皐月賞のレースぶりを見て、自身が管理したクラシック二冠馬コダマと比較して「コダマはカミソリ、シンザンはナタの切れ味。ただしシンザンのナタは髭も剃れるナタである」と評した。これは武田のシンザンに関する発言としてもっとも有名なものとなった[92]。
- 栗田勝はシンザンを「こちらの考えていることが以心伝心、電気のように伝わる。こんなに乗りやすい馬はいない」と評した[89]。
- 大川慶次郎はスプリングステークス前の調教で初めてシンザンを見たが、背中がへこんで見える体型をひどく見劣ると感じ、さらに調教の走破タイムが悪かったこと、それまでのローテーション(2か月半の間に4回レースに出走していた)を「とてもクラシックを狙う馬の使い方ではない」と感じたことなどからシンザンを低く評価した。大川はシンザンがスプリングステークスを優勝したあとも「この次は、きっとシンザンは何かに負けるだろう」という思いを抱き、それはシンザンがクラシック三冠を制したあとも変わらなかった。そのため、大川は予想の際に「負かすとすれば、この馬だろう」という馬を探すのを常とし、シンザンを本命にすることは一度もなかった。大川はのちに「シンザンにはその体型に勝る大きなものが内在していた。間違っていたのは私がそれに気がつかなかったことの方」と述べている[93]。
- シンザンの銅像を制作した彫刻家の三井高義はシンザンを「よさは第一に目がいいこと」「目を見て圧倒された」と評した[94]。
投票による評価
- 2000年に日本中央競馬会が実施した競馬ファンによる「20世紀の名馬大投票」では17,159票を獲得し、7位に選出された[95]。1位ナリタブライアンには2万票あまりの差を付けられたが、50歳と60歳以上の世代からはそれぞれ1位の支持を得た[96]。
- 雑誌『Number』が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」では1位に選ばれた。
競走馬名および呼称
競走馬名
競走馬名「シンザン」は、本来漢字で表すと「伸山」であるとされるが[6]、「新山」「深山」などの異説、誤説もある。京都競馬場の銅像やホッカイドウ競馬の競走名にもなっている「神賛」は三冠達成時に当時の日本中央競馬会理事長:石坂弘がシンザンを称えこう呼んだことからきている[34][注 44]。ちなみに「伸山」の「山」は「入厩時から山のようにどっしりと落ち着いていた」からであったという。
このシンザンという名前はシンザンの子孫の名前としてもよく使われ、シンザンミサキ、ミホシンザン、マイシンザン、シンザンの末子となったスーパーシンザンらが知られている。なおシンザンと名付けられた競走馬は1949年生まれの牝馬(父ニシヒカリ)シンザン、1986年オーストラリア生まれのShinzanの二頭がいるが、現在は国際保護馬名に登録されているためShinzanをそのまま使うことはできない。
呼称
- シンザンは五冠馬と称される。GI級競走は宝塚記念を含め6勝しているが、宝塚記念は八大競走に入っていなかったため、六冠馬とは称されない。
- JRA競馬博物館内のメモリアルホール、JRAのページ(競馬の殿堂:シンザン)などでは「最強の戦士」という副題で紹介されている。
シンザンの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ボワルセル系 |
[§ 2] | ||
父 *ヒンドスタン Hindostan 1946 黒鹿毛 |
父の父 Bois Roussel1935 |
Vatout | Prince Chimay | |
Vasthi | ||||
Plucky Liege | Spearmint | |||
Concertina | ||||
父の母 Sonibai1939 |
Solario | Gainsborough | ||
Sun Worship | ||||
Udaipur | Blandford | |||
Uganda | ||||
母 ハヤノボリ 1949 栗毛 |
ハヤタケ 1939 鹿毛 |
*セフト | Tetratema | |
Voleuse | ||||
飛竜 | *クラックマンナン | |||
*オーフロラ(Yinkari) | ||||
母の母 第五バッカナムビューチー1941 栗毛 |
*トウルヌソル | Gainsborough | ||
Soliste | ||||
バッカナムビューチー | *シアンモア | |||
第三ビューチフルドリーマー F.12 | ||||
母系(F-No.) | 12号族(FN:12) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Gainsborough 4×4、Sun Worship 4×5、Gallorette・Pretty Polly 5×5 | [§ 4] | ||
出典 |
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注釈
- ^ 次点はビワハヤヒデの15連続連対。連対率100パーセントに限るとダイワスカーレットの12連続連対が次点。
- ^ 母の母の母。
- ^ 『シンザン物語』p.212によると320万円。より古くに書かれた『黄金の馬シンザン』p.300によると300万円。ちなみに当時東京優駿の優勝賞金は700万円であった。
- ^ 栗田勝の息子で、後に日本中央競馬会の騎手、調教助手。武田は母方の祖父にあたる。
- ^ 人為的に仔馬を母馬から引き離すこと。
- ^ スプリングステークスは本来中山競馬場で行われるが、この年は中山競馬場の改修工事が行われていたため東京競馬場で行われた。後述の皐月賞も同様。
- ^ シンザンは関東に遠征したときには中村の厩舎で管理された。その際には武田は中村の自宅に宿泊した[12]。
- ^ ただし、ルドルフの年は多雪、長雨の影響で馬場がダービーの時期にも回復せず、大量の砂が入れられた半ばダートのような馬場であった[14]。
- ^ 武田の決定の根拠は、京都の夏の気温に対応した状態にあるシンザンを北海道へ送り、さらに涼しくなった北海道に対応した状態で残暑の厳しい京都へ戻すことによるリスクを回避することにあった。
- ^ 具体的な症状としては体温が普段よりも5〜6分上昇し、汗をまったくかかなくなった。
- ^ 厩舎が使った氷は一日60貫で、ひと夏に20万円の費用を要した。
- ^ 調教でよく走るオンワードセカンドを相手に、相手よりも長い距離を走ったにもかかわらず先にゴールした。
- ^ 菊花賞に出走した二冠馬で1番人気に推されなかったのは史上初のことであった。
- ^ 目黒記念は距離が2500メートルと長いうえに、負担重量を減らす手段がないハンデキャップ競走であったため、当初武田はローテーションの候補から除外していた。
- ^ JRAのGI級競走における単勝支持率としてはハクチカラ(1957年天皇賞〈秋〉、85.9パーセント)とディープインパクトの菊花賞(79.03パーセント)に次ぐ記録。
- ^ 5例の内訳は、1951年皐月賞(勝ち馬トキノミノル)、1957年桜花賞(ミスオンワード)、1957年天皇賞・秋(ハクチカラ)、1957年有馬記念(ハクチカラ)、2005年菊花賞(ディープインパクト)。
- ^ 中央競馬のみの記録。当時の地方競馬では記録に不備があり残っていない。
- ^ 右目の眼球が白濁していたため一般には白内障といわれているが、正確な病名は不明である[42]。
- ^ そのうちのいくつかはマスコミによってシンザンが危篤状態に陥ったと報道された。
- ^ 満年齢。旧年齢表記で36歳。
- ^ 昭和50年代以降、日本で土葬された競走馬は、シンザンのほかにテンポイント、サクラスターオー、マルゼンスキー、ナリタブライアン、パシフィカスの計6頭が確認されている。
- ^ カネケヤキは1961年3月12日に生まれ、1995年10月28日に死亡した。なお、同馬はシンザン三冠達成の菊花賞にも出走していた。
- ^ マイネルダビテは、2020年5月3日には年齢が36歳になったことが同年6月2日付けの北海道新聞に掲載された[48]。また、2020年11月28日放送のテレビ東京ウイニング競馬にて、ジャパンカップに出走するデアリングタクトのことについて代表の岡田牧雄を直撃取材した際に、本馬の記録を1年3ヶ月超える36歳6ヶ月(いずれも取材時点)である同馬が、代表の親友として紹介された[49]。
- ^ 種牡馬、産駒にマイシンザン。
- ^ 天皇賞春3着、高松宮杯2着。愛知杯ではスガノホマレを破った。
- ^ レコード勝ち5回。
- ^ 芝2000メートル2分の壁を初めて破る。
- ^ 菊花賞2着、日経新春杯2着、毎日王冠2着
- ^ 40戦して10勝、堅実に走り着外はわずか6回、最終的に2億円以上を稼ぎ出して当時の賞金女王になった。
- ^ 中山牝馬ステークス(オープン特別)連覇
- ^ シンザン記念2着、日経新春杯2着。中京記念2着。
- ^ シンザン産駒初の重賞優勝馬、シンザン記念でも好走。その後供用2年目で死亡。
- ^ 函館記念2着、函館3歳ステークス2着
- ^ 天皇賞(秋)3着。アサヒテイオーの全兄、アサヒエンペラーの半兄。
- ^ アサヒダイオーの全弟。
- ^ アメリカジョッキークラブカップ2着、オールカマー2着
- ^ 最後の重賞優勝馬。
- ^ 唯一の障害重賞勝ち馬。
- ^ 日経新春杯2着、中京記念2着。ウラカワチェリーの兄。種牡馬として、産駒にエントリーストーム。
- ^ ハシストームの弟。競走馬としては中央競馬準オープン。
- ^ 福島テレビ杯、ストークステークス。1994年引退。
- ^ 桜花賞2着、エリザベス女王杯2着。サンケイスポーツ杯4歳牝馬特別2着。高松宮杯3着。
- ^ 。元競走馬が障害飛越競技で五輪日本代表になったのは、2010年現在この馬のみである。総合馬術の代表経験馬は1932年ベルリン五輪に出場したアスコット(帝室御賞典など17勝)、1976年モントリオール五輪に出場したインターニホン(8勝)がいる。
- ^ ホッカイドウ競馬の競走名である「五冠神讃特別」は同名の日本酒の銘柄に由来するが、その日本酒もシンザンから命名している(大本命五冠神讃 北海道日高振興局)。
- ^ 当時の『優駿』誌の有力厩舎の新馬紹介では「仕上がりは早く、秋の一番馬の期待は持てる」との評価を与えているが、武田厩舎の馬の紹介順では、オンワードセカンドらのあとであった。
- ^ 武田が管理したクラシック二冠馬。
- ^ 具体的には、シンザンに蹄鉄を履かせながら作成された。
- ^ 当時の見習騎手は「騎手免許取得後3年未満」の騎手を指しており、勝利数に関わらず負担重量の軽減を得られた。そのため、シンザンのみならず一線級の馬がオープン戦に出走する際、重い負担重量を避けるために主戦と異なる見習騎手を起用する事例は珍しくなかった。
- ^ このとき、中山競馬場でレースまで掛かりっきりで調教をつけた博によると、調教時から馬体が重く、調教で気合を付けながら強めに追っても伸びなかったという。
- ^ 『シンザン物語』によると急性アルコール中毒。『黄金の馬シンザン』によると急性胃腸カタル。
- ^ 武田の意向に関わらず、栗田が全治1か月と診断されたため、あるいは騎乗停止処分を受けたことによって騎乗が不可能になったという説もある[110]。
- ^ 武田は当初中山競馬場をよく知る関東の騎手に乗せたいと思い、当時のリーディングジョッキーだった加賀をはじめ複数の騎手に騎乗を打診したが、依頼を断られている。
- ^ オープンで見習騎手が騎乗した馬の斤量は3キロ減らされた。
出典
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- ^ ““平成のシンザン”スルタンV/新馬戦 - 競馬ニュース : nikkansports.comからアーカイブ”. web.archive.org (2020年10月20日). 2021年4月26日閲覧。
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