カール・イバノビッチ・ヴェーバー カール・イバノビッチ・ヴェーバーの概要

カール・イバノビッチ・ヴェーバー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 14:15 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

略歴

ヴェーバーは中流階級の家庭に生まれ、早くからアジアの歴史に興味を示した。彼は1865年サンクトペテルブルク大学を卒業し、翌年外交官となった。初めての海外赴任は北京であり、1882年には天津の領事に任じられた。

彼は1884年6月25日露朝修好通商条約に調印し、翌年4月には朝鮮におけるロシア初の公式代表者としてソウルへ異動した。1885年から1897年の間に、ロシアの初めての在朝鮮総領事を務め、李氏朝鮮の王である高宗の個人的友人でもあったことで知られる[1][2][3]。ソウルにおいて、ヴェーバーは高宗と親交を深めた。ヴェーバーの妻は、ドイツ公使フェルディナント・クリーン英語版乱交を行なったとする悪評を流布し、クリーンの朝鮮での活動に大きな制約を与えた[4]

1885年第一次露朝密約事件を起こしたパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ李鴻章が失脚させた。1886年8月に、朝鮮政府がヴェーバーへ密函(秘密書簡)を送ったことが清に発覚した第二次露朝密約事件が起こった。

日清戦争・露館播遷

ロシア政府が彼を別の任地に差し向けようとしたとき、高宗はロシア皇帝ニコライ2世へ抗議文を書き(1895年7月2日)、その中で高宗はヴェーバーの賢明さを賞賛しつつ、より長く朝鮮に留まることを認めるよう求めた。高宗の要請は認められ、ウェーバーの代員となるはずであったアレクセイ・シュペイエル英語: Alexei Nikolaevich Speyerロシア語: Алексей Николаевич Шпейер)が、代わりに東京駐日ロシア大使に配属された[3]

1895年10月の閔妃暗殺(乙未事変)の後、ヴェーバーは個人的に貞洞(現在のソウル特別市中区)のロシア公使館の建物を避難所として高宗に提供し、高宗は1896年2月から1897年2月までそこに住んだ(露館播遷)。この時期は、朝鮮に対するロシアの影響の高さが特徴付けられる。ヴェーバーは李完用李範晋李允用朝鮮語版の率いる「親露派」による新内閣を指名するように、高宗に説得することができた。

小村・ウェーバー協定

1896年5月に大日本帝国の外交官・小村寿太郎との間に小村・ウェーバー覚書を交わし、ロシアが4個中隊を朝鮮半島に配置する権利を認めさせ、かつ日本に新内閣の承認を求めた。しかしながら、1897年9月、シュペイエルがヴェーバーの代わりに来るに至り、ヴェーバーはサンクトペテルブルクへ帰任した[5]

ヴェーバーは日露戦争前夜の1903年4月、高宗との会談のためにロシアの公的資格で再びソウルを訪れた。彼はロシア最高の勲章である聖アンドリュー勲章を受章している[3]

出版物

  • О корейском языке и корейском чтении китайских иероглифов, 1908.
  • Пробная транскрипция всех городов Кореи, 1908.



「カール・イバノビッチ・ヴェーバー」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カール・イバノビッチ・ヴェーバー」の関連用語

カール・イバノビッチ・ヴェーバーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カール・イバノビッチ・ヴェーバーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのカール・イバノビッチ・ヴェーバー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS