ウッドロウ・ウィルソン ニュージャージー州知事から大統領へ

ウッドロウ・ウィルソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 05:40 UTC 版)

ニュージャージー州知事から大統領へ

ウィルソンは同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党のニュージャージー州知事候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。 1912年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。共和党ウィリアム・タフトセオドア・ルーズベルトは互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果、ウィルソンは大統領選に勝利した。

大統領として

連邦議会でドイツとの休戦協定を読み上げるウィルソン(1918年11月11日)。

ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引き下げるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」・「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず、中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。

任期1期目でウィルソン連邦準備法連邦取引法英語版クレイトン法農業信用法英語版および1913年歳入法英語版に基づく初めての連邦累進所得税が議会通過するように民主党を説得した。ウィルソンは政権に南部人を多く起用し、彼らが多くの連邦機関で人種隔離を拡大することを許容した[18]

第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916年アメリカ合衆国大統領選挙での再選に寄与した(再選に向けたキャンペーンのスローガンは「彼は私たちを戦争に巻き込まなかった」であった)。しかし実際にはアメリカは連合軍側への物資・武器の提供や多額の戦費貸付を行っており、中立国の義務を果たしてはいなかった。これに対抗したドイツの無制限潜水艦作戦によって発生したルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦圧力は増大し、「ツィンメルマン電報」の暴露から1ヶ月後、アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。開戦に際してウィルソンは国内統制を強化し、愛国団体を通じてナショナリズムを煽って労働運動・反戦運動などを弾圧した。

1917年にウィルソンは南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債英語版を発行して何十億ドルもの戦費を調達した。戦時産業局英語版を設置し、労働組合の成長を促進した他、リーバー法(戦後廃止)を通して農業と食糧生産を監督し、鉄道の監督を引き継いだ。さらに最初の連邦レベルの麻薬取締法を制定し、反戦運動を抑圧した。ウィルソンは1917年から18年にかけて国を覆った反ドイツ感情を奨励することはなかったが、それを抑え込もうとすることもなかったし、その動きを止めることもしなかった。

第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは「十四か条の平和原則」を発表した。疲弊したドイツ帝国は降伏し休戦協定の締結へと至った。ウィルソンはイギリスとフランスに「平和原則」を講和の前提とするように求めた。

パリ講和会議

パリ講和会議におけるアメリカ全権団とそのスタッフ
ノーベル賞受賞者
受賞年:1919年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:国際連盟創設への貢献[19][20]

第一次世界大戦休戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日にフランスのパリへ出発した。ウィルソンは在職中にヨーロッパへ外遊した最初の大統領である。ウィルソンは「平和原則」で示した公正な態度のため、連合国国民のみならず、旧中央同盟国国民からの期待も集めていた[21]。イギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた[22]。ウィルソンはフランスのジョルジュ・クレマンソー首相、イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相と共に講和会議の三巨頭として主要な案件に携わり、戦後秩序の決定者の一人となった。しかし十四か条の平和原則がそれまで大戦中に英仏伊日など主要国が結んだ協定や条約を無効にし、アメリカの要求に従って最初から決めるように求める内容であったため会議参加国の反発を招いた。特にドイツに苛烈とも言える賠償を求めたフランスのクレマンソーとの対立は根深く、一時は会議決裂すら危惧される情勢であった。また、国際連盟建設については意欲的であり、講和会議小委員会の一つである国際連盟委員会委員長にはウィルソンが自ら就任している[23]

この委員会で日本全権の牧野伸顕らは、国際連盟規約人種差別の禁止を盛り込むという人種的差別撤廃提案を提案した。ウィルソンの側近で代表団の一員であったエドワード・ハウス名誉大佐は日本側から草案を見せられた際に、ウィルソンも賛成するだろうと述べており、翌日にはウィルソンは大統領提案として人種差別撤廃を提案すると日本側に伝達している[24]。しかしイギリス連邦、特にオーストラリアの反発は強く、またアメリカ上院もこの提案が内政干渉にあたり、この提案が通れば条約を批准しないと猛反発した[25]。採決においては11対5で賛成多数だったにもかかわらず、「全会一致でない」「本件のような重大な問題についてはこれまでも全会一致、少なくとも反対者ゼロの状態で採決されてきた」として議長権限により否決とした[26]。一方で、日本が要求したドイツが持っていた山東半島の権益を日本に引き渡すという山東問題においては、日本が連盟不参加をほのめかす強硬措置を執ったため、親中華民国派が多いアメリカ全権団内部からの反発を押して、不本意ながら日本に山東半島の権益を引き渡すことに合意している[27]

ウィルソンはこの件にもあるように、国際連盟成立のために様々な譲歩を余儀なくされ、期待を寄せていた人々からの失望を買った。また山東問題の譲歩などで、アメリカ全権団内からの支持も失った[28]。それでもヴェルサイユ条約をはじめとする各講和条約が成立し、国際連盟も成立する運びとなった。しかしアメリカ上院は、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うという国際連盟規約第10条が、モンロー主義を掲げるアメリカの中立主義に抵触すると反発した。側近はこの条項を受諾するに当たって留保条件をつけて上院の同意を得るべきだと説得したが、ウィルソンはこの譲歩に頑として応じなかった[29]。結果、上院は批准を行わず、アメリカは国際連盟に参加することはできなかった。1919年のノーベル平和賞受賞は、連盟創設の功績によるものである。

大統領顧問団

ホワイトハウスのポートレイト
職名 氏名 任期
大統領 ウッドロウ・ウィルソン 1913年 - 1921年
副大統領 トーマス・マーシャル 1913年 - 1921年
国務長官 ウィリアム・ブライアン 1913年 - 1915年
ロバート・ランシング 1915年 - 1920年
ベインブリッジ・コルビー 1920年 - 1921年
財務長官 ウィリアム・マカドゥー 1913年 - 1918年
カーター・グラス 1918年 - 1920年
デイヴィッド・ヒューストン 1920年 - 1921年
陸軍長官 リンドリー・ガリソン 1913年 - 1916年
ニュートン・ベイカー 1916年 - 1921年
司法長官 ジェームズ・マクレイノルズ 1913年 - 1914年
トーマス・グレゴリー 1914年 - 1919年
ミッチェル・パーマー 1919年 - 1921年
郵政長官 アルバート・バーレソン 1913年 - 1921年
海軍長官 ジョセファス・ダニエルズ 1913年 - 1921年
内務長官 フランクリン・レーン 1913年 - 1920年
ジョン・パイン 1920年 - 1921年
農務長官 デイヴィッド・ヒューストン 1913年 - 1920年
エドウィン・メレディス 1920年 - 1921年
商務長官 ウィリアム・レッドフィールド 1913年 - 1919年
ジョシュア・アレグザンダー 1919年 - 1921年
労働長官 ウィリアム・ウィルソン 1913年 - 1921年

政権末期

イーディス・ウィルソン夫人(右)と

もともと偏頭痛の持病があったが、1919年10月2日にコロラド州脳梗塞を発症した。一命は取りとめたものの、左半身不随、左側視野欠損、言語障害といった重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし、主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後の国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期になってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであったトーマス・マーシャル副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加した他は職務権限の代行は一切しなかった。

こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。

結婚

エレン・ルイーズ夫人

1885年にジョージア州出身のエレン・ルイーズ・アクソンと結婚し、マーガレットジェシーエレノアの三女をもうけた。エレンは徐々に健康を害し1914年腎臓炎で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。エレンがなくなってから、再婚するまでの間は、長女のマーガレットが事実上のファーストレディとなった。

1915年に58歳のウィルソンは、ボーリング家(ポカホンタスの子孫)出身であり未亡人となっていた43歳のイーディス・ボリング・ガルト(1872年 - 1961年)を紹介されて再婚した。イーディスは第一次世界大戦下でファーストレディの重責を務め、1919年にウィルソンが倒れると2年間にわたり非公式ながら夫に代わって国政をみた。


  1. ^ Woodrow Wilson president of United States Encyclopædia Britannica
  2. ^ 真渕勝、『行政学』、有斐閣、2009年、p.532
  3. ^ 西尾勝、『行政学〔新版〕』、有斐閣、2001年、p.28
  4. ^ John Milton Cooper, Woodrow Wilson: A Biography (2009) pp 13-19
  5. ^ Genealogy of President Woodrow Wilson”. Wc.rootsweb.ancestry.com. 2010年9月11日閲覧。
  6. ^ President Wilson House, Dergalt”. Northern Ireland - Ancestral Heritage. Northern Ireland Tourist Board. 2011年2月11日閲覧。
  7. ^ Walworth 1958 p. 4
  8. ^ a b Woodrow Wilson - 28th President, 1913-1921”. PresidentialAvenue.com. 2011年2月11日閲覧。
  9. ^ White, William Allen (2007-03-15). “Chapter II: The Influence of Environment”. Woodrow Wilson - The Man, His Times and His Task. ISBN 9781406776850. https://books.google.co.jp/books?id=pXYqVxLyRrwC&printsec=frontcover&dq=Woodrow+Wilson:+The+Man,+His+Times+and+His+Task&redir_esc=y&hl=ja#PPA28,M1 
  10. ^ Freud, Sigmund and Bullitt, William C. Woodrow Wilson: A Psychological Study (1966)「ウッドロー・ウィルソン 心理学的研究」岸田秀訳(紀伊国屋書店、1969年)
  11. ^ Wilson: A Portrait”. American Experience, PBS Television (2001年). 2009年1月19日閲覧。
  12. ^ Woodrow Wilson, Episode One: He Was a Quiet Man (transcript)”. American Experience, PBS Television (2001年). 2009年1月19日閲覧。
  13. ^ Link Road to the White House pp. 3-4.
  14. ^ Walworth ch 1
  15. ^ Link, Wilson I:5-6; Wilson Papers I: 130, 245, 314
  16. ^ The World's Work: A History of our Time, Volume IV: November 1911-April 1912. Doubleday. (1912). pp. 74-75 
  17. ^ Cranston 1945
  18. ^ Wolgemuth, Kathleen L. (1959). “Woodrow Wilson and Federal Segregation”. The Journal of Negro History 44 (2): 158-173. doi:10.2307/2716036. ISSN 00222992. http://jstor.org/stable/2716036. 
  19. ^ "The Nobel Peace Prize 1919". Nobel Foundation. Retrieved 2011-10-06.
  20. ^ Lundestad, Geir (2001-03-15). "The Nobel Peace Prize, 1901–2000". Nobel Foundation. Retrieved 2011-10-06.
  21. ^ 吉川宏、1、346-347p
  22. ^ 細谷千博 1959, p. 69.
  23. ^ 山越裕太「国際保健衛生分野の制度形成と感染症:国際連盟規約起草過程の事例から」『コスモポリス』第5号、上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科国際関係論専攻『コスモポリス』編集委員会、2011年、61-81頁、ISSN 18822967NAID 120005885567 
  24. ^ 永田幸久 2003, pp. 204.
  25. ^ 永田幸久 2003, pp. 207.
  26. ^ 永田幸久 2003, pp. 212.
  27. ^ 中谷直司、2004、286-287p
  28. ^ 中谷直司、2004、299-300p
  29. ^ 牧野雅彦 2009, p. 251-252.
  30. ^ David Henry Burton. Theodore Roosevelt, American Politician, p.146. Fairleigh Dickinson University Press, 1997, ISBN 0-8386-3727-2
  31. ^ John Whitcomb, Claire Whitcomb. Real Life at the White House, p.262. Routledge, 2002, ISBN 0-415-93951-8
  32. ^ "Woodrow Wilson House", National Park Service Website, accessed 12 Jan 2009
  33. ^ Wills of the U.S. Presidents, edited by Herbert R Collins and David B Weaver (New York: Communication Channels Inc., 1976) 176-177, ISBN 0-916164-01-2.
  34. ^ “ウィルソン元米大統領の名前冠した学部・建物の名称変更…米大「人種差別的政策進めた」”. 讀賣新聞オンライン. (2020年6月28日). https://www.yomiuri.co.jp/world/20200628-OYT1T50115/ 2023年12月12日閲覧。 
  35. ^ President Eisgruber's message to community on removal しWoodrow Wilson name from public policy school and Wilson College” (英語). Princeton University. 2020年11月25日閲覧。
  36. ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー


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