側近政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:14 UTC 版)
家継は詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行した。この間、幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の詮房、顧問格だった白石らが主導している。真偽はともかくとして、若く美しい未亡人だった月光院と独身の詮房の間には醜聞の風評が絶えず、正徳4年(1714年)には大奥を舞台とした江島生島事件が起こっている。 家継自身は白石より帝王学の教育を受け、白石も利発で聞き訳が良いとその才覚を認めていた。しかし幕政においては白石と詮房は次第に幕閣老中たちの巻き返しに押され気味となり、政局運営はなかなか思うようにはいかなくなっていった。 正徳5年(1715年)9月、霊元法皇(正徳3年に落飾)は、2歳の皇女・八十宮(吉子内親王)を家継に降嫁させることを決めた。家宣の存命中から天英院(近衛熙子)の弟・近衛家煕(摂政・関白・太政大臣を歴任)の娘である尚子との婚約を内々に決めていたが、家継よりも7歳も年上の尚子との年齢差を気にかけた天英院と家煕は、尚子を中御門天皇に入内させて女御にすることで事実上の婚約破棄を行った。尚子に代わる御台所の候補を求めた天英院と月光院は幼少の将軍の立場を強化するため、「家継」の名付け親でもある法皇の皇女を迎えようと考えて幕府を通じて交渉した。法皇もこの要請を受け入れて、正式に婚約をすることになったが、思わぬ形で皇女降嫁の話は立ち消えになってしまうことになった。
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