X.OrgとXFree86
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 14:35 UTC 版)
「X Window System」の記事における「X.OrgとXFree86」の解説
XFree86の起源は、Thomas RoellとMark W. Snitilyが1991年に書いたPC/AT互換機向けのX11R5であるX386 serverに遡る。Snitily Graphics Consulting Services (SGCS) はこれを1992年にMIT X Consortiumに寄贈した。XFree86は時と共に進化していき、Xの実装としてのデファクトスタンダードとなった。 1999年5月、The Open GroupはX.Orgを設立した(後のX.Org Foundationとは異なる)。X.Orgは当時進行中だったX11R6.5.1のリリースを実施した。当時のX開発は壊滅寸前であった。X Consortium, Inc.が解散した後の技術的進歩の多くはXFree86プロジェクトで生まれた。1999年、XFree86はX.Orgの(会費を払わない)名誉会員となり、XFree86とLinuxを製品に使いたいと思っていた多くのハードウェア企業がこれを歓迎した。 2003年までにLinuxとXの組合せが非常に一般的になってきても、X.Orgは活発にはならず、やはり開発の中心はXFree86であった。しかし、ここでXFree86内で大きな意見の相違が発生した。XFree86は、あまりにも伽藍的開発モデルであり、開発者はCVSにコミットアクセスできず、ベンダーは多数のパッチを保守する必要があった。2003年3月、XFree86からキース・パッカードが追い出された。彼はMIT X Consortiumの消滅後にXFree86に参加していた。 X.OrgとXFree86は、Xの開発を推進するための組織改編についての議論を開始した。Jim Gettysは2000年ごろからオープンな開発モデルが必要であることを強調していた。GettysとPackardは他の何人かと共に効率的なXのオープン開発の要求仕様について議論を開始した。 そしてX11R6.4のライセンス問題の結果、XFree86 version 4.4はより制限されたライセンスで2004年2月にリリースされ、Xを使っている多くのプロジェクトでこれを使うのが困難になった。追加された条項はBSDライセンスの宣伝条項に基づいており、フリーソフトウェア財団もDebianもこれをGNU General Public License (GPL) と非互換であるとした。このライセンス問題とソース修正の困難さから、多くの人が分裂の機が熟したと感じていた。
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