PPD-34/38の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 02:03 UTC 版)
「PPD-34/38短機関銃」の記事における「PPD-34/38の登場」の解説
ソ連での軍用短機関銃の研究は、当時の文献から第一次世界大戦後の1926年頃からとされ、本格的に研究が開始されたのはもっと後とされる。銃技師であるデグチャレフ技師を中心に開発が進められ1934年には初期型であるPPD-34短機関銃を開発し1935年にソ連軍により正式採用、その後1938年にPPD-34を改良したPPD-38短機関銃が翌年の1939年にソ連赤軍で採用されている。(PPDとは“Pistolet-Pulemet Degtyareva”ディグチャレフ短機関銃の略称) 機関部の動作機構はドイツ製短機関銃であるMP18短機関銃を参考にブローバック方式を採用し、弾倉には25発用の箱型弾倉を使用していた。その後、冬戦争でフィンランド軍が使用していたスオミM1931のドラム式弾倉に軍部が注目し、PPD-34/38専用の71発(初期型は73発)ドラム式弾倉が製作されている。これは円盤状の本体の上部に、箱型の挿入部が飛び出た形状で、頻繁に給弾不良を起こしたとされる。この不具合は後継機種であるPPD-40短機関銃で、スオミM1931のものと類似した形状のドラム式弾倉に改めることで解消された。 弾薬にはトカレフ製拳銃などに使用されていた7.62mm×25トカレフ実包を使用、銃自体も耐久性を重点において設計されているためか、ドラム弾倉をフル装填した時点でのPPD-34/38の総重量は6.0kg前後と他国の短機関銃と比べると非常に重たかった。ただし体格のいいスラブ民族にとってこの事はさほど問題にはならなかったとされる。
※この「PPD-34/38の登場」の解説は、「PPD-34/38短機関銃」の解説の一部です。
「PPD-34/38の登場」を含む「PPD-34/38短機関銃」の記事については、「PPD-34/38短機関銃」の概要を参照ください。
- PPD-34/38の登場のページへのリンク