エンリコ・デ・ニコラ
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エンリコ・デ・ニコラ Enrico De Nicola |
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任期 | 1948年1月1日 – 1948年5月12日 |
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任期 | 1946年7月1日 – 1948年1月1日 |
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任期 | 1951年4月28日 – 1952年7月24日 |
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任期 | 1920年7月26日 – 1924年1月25日 |
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出生 | 1877年11月9日![]() |
死去 | 1959年10月1日(81歳没)![]() |
政党 | イタリア自由党 |
エンリコ・デ・ニコラ(伊:Enrico De Nicola、1877年11月9日 - 1959年10月1日)は、イタリアの政治家。
概要
カンパニア州ナポリ県ナポリで弁護士の家に生まれる。1909年に代議院議員に初当選して政界入りし、1920年には代議院(下院)議長になる。しかし、ベニート・ムッソリーニによるファシスト独裁が確立すると半ば政界引退に追い込まれる。1926年には元老院(上院)議員に勅任されたもののその実態はなく、ほとんど隠遁状態にあった。
1943年にムッソリーニが失脚すると復権を果たし、その後1946年に国民投票で王制を廃止し共和制へ移行することが決定されると、直後の憲法制定議会における間接選挙で全投票の約8割を獲得して「暫定国家元首」に指名された。ところがデ・ニコラは、従前は国王の占める地位だった国家元首の職に就くことに逡巡し、指名を受ける受けないで翻意に翻意を重ねる日々が続いた。後に首相となるジュリオ・アンドレオッティはたまりかねて「閣下、どうか指名を受諾されることを受諾されるご決断を下すことをご決断ください("Onorevole De Nicola, decida di decidere se accetta di accettare.")」という皮肉を込めた書翰を送りつけるほどだった[1]。
こうして1946年7月1日、デ・ニコラは共和国暫定国家元首に就任した。それから1年と経たない1947年6月25日には健康状態を理由に突如その職を辞したが、憲法制定議会はその清廉な人格と顕職にしがみつかない潔さをかえって評価、翌日ただちに彼を暫定国家元首に再指名している。翌1948年1月1日にイタリア共和国憲法が施行されると、デ・ニコラは憲法の経過規定第1条によりそのまま初代大統領となった。しかし同年5月には健康状態を理由に再び辞任を表明。次の大統領を選ぶにあたっては三たびその候補者となることさえも固辞した。
退任後は元国家元首の前官を礼遇するかたちの「元老院終身議員」となり、その後も政界にとどまった。1951年4月末から翌年7月末にかけては元老院議長まで務めている。
逸話
ピザが好きで、必ず窯の近くのテーブルに座っていたと言われている。
脚注
- ^ Bruno Vespa. Storia d'Italia da Mussolini a Berlusconi, pag. 32.
関連項目
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「Enrico De Nicola」の例文・使い方・用例・文例
- '火星の衛星'の拡大は、Demosとフォボスだけを含む集合である
- ルーツが殺虫剤ロテノンをもたらす熱帯アジアの類概念Derrisの様々な通常樹木の茂ったつる植物のいずれも
- TBSがDeNAへのベイスターズ売却に合意
- 横浜ベイスターズの親会社である東京放送(TBS)ホールディングスは,携帯電話向けゲームサービスプロバイダーのディー・エヌ・エー(DeNA)に同球団を売却する契約を結んだ。
- 11月4日,TBSが同球団の株式66.92%を65億円でDeNAに売却すると発表された。
- DeNAは「横浜DeNAベイスターズ」の新名称で日本野球機構(NPB)への加盟を申請した。
- DeNAは携帯電話向けソーシャルゲームプラットフォーム「モバゲー」を運営している。
- DeNAは今後,ベイスターズの名称と所有権の変更に対して,12月1日のオーナー会議で少なくとも出席者の4分の3の同意を得なければならない。
- 広島東洋カープのエース,前田健(けん)太(た)投手が4月6日,横浜DeNAベイスターズ戦でノーヒットノーランを達成した。
- 中日ドラゴンズの山井大(だい)介(すけ)投手が6月28日,横浜スタジアムでの横浜DeNAベイスターズ戦でノーヒットノーランを達成した。
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